存在

私はどこから来たか。火星か、金星か、M78星雲か、アンドロメダ星雲か。天国か、地獄か。お袋の子宮の中からか。親父の精巣の中からか。地から湧いてきたのか。空から降ってきたのか。降って、湧いたのか。

私がいる前と、いる今と、いなくなった後では、何が違うのか。私がこの世から去ったら、どこへ行くのか?私は、消失しないのか?この世に生まれる前にはどこにいたのか?無だったのか?存在しなかったのか?私はいつ存在し始めたのか?私は存在しているのか?なぜ存在していることがわかるのか?私が存在していることがわかるには、存在している私とそれを認識する私が必要である。それが同一であることが、ありえるだろうか?

私が存在しているのを確かめる一番手っ取り早い方法は、手を見ることだ。それから足とか、腹・胸と見る。見る?見るのは目である。今、あなたは、自分というものを、頭の中にいると考えなかったか?私は考えた。私は、頭の中にいる。腹の中にはいない。それだけは間違いない。ひざの皿の裏にもいない。右左あるものの片側にあるなんてことは考えにくい。頭の中、脳みその中なんかにいたら、一番しっくりくる。でも、本当だろうか。本当は、そんなこと信じていない。


私は強度の近視で、めがねがないとすべてがぼんやりしてしまう。まあ、生きていけないことはないけど、字が読めないから、どこかへ行ったり何か買ったりするのに苦労する。近視の人は非常に多い。めがねをかけていない人のほうが少ないんじゃないか?だから、別に気に病むことではないし、コンプレックスを抱くことでもない。近視であることを悩んでいる人なんかいないだろう。不便で金がかかるくらいがせいぜいだ。しかし、たまに、私は近視であることが非常に恥ずかしいことだと思うことがある。恥ずかしいと言うか、ダサいというか、カッコ悪いというか。

たとえば、今日走ってきたが、その間めがねをはずしていた。そして帰ってきて、めがねをかけた。30分ぶりくらいだ。すると、毎日かけているめがねなのに、きつく感じた。見えすぎている。子供の時は、見えていた。2.0だった。中学2年くらいから、悪くなって、確かサラエボオリンピックの頃には、TVのタイムが見えなくなっていて、指で小さい穴を作って、そこから除いていた。学校の授業で黒板を見るときなどもそうしていた。目を細めるよりも、効果があるのだ。

なんで目が悪くなったんだろう。TVか、勉強か。TVはそんなに見ていなかった。せいぜい2時間。
しかも、そんな近くじゃなかったし。それよりも、寝床の中で本を読んだり、試験勉強をしたことのほうが原因だろう。多分、試験勉強である。

話がそれたが、私が言いたいのは、自分が頭の中にあるというのは、そう思い込んでいるだけじゃないのか、と言うことだ。それから、僕は、自分が幸せな家庭を築いて平穏に暮らしていくことなんか、これっぽっちも望んでいない。学校の授業、テレビ、漫画、雑誌などを見ていれば、この世が狂っていて、それを正さねばならないことは明らかだろう。誰だって、この世は天国だなんて、思えないはずだ。


だけど、みんなは、この世が狂っている原因を、あまりに簡単なことに帰している。貧困がそうだというのは共産主義をはじめとして、非常に多くの人が抱いている誤った考えだ。それは絶対間違っていて、逆だ。だいたい、世の中間違っている、と思うのは、不思議ではないか?どうして間違っている存在が、それを自覚できるのか?どうして貧困が原因で悪を行う存在が、貧困のうちにいながらそれを自覚できるのだろうか?

勉強というのはいつも、当たり前のことを確認することであった。難しいことは排除して、単純化して、一般化するのが勉強であった。それは、レンガを積むような、退屈ではあるが簡単なことであった。また、勉強と言うのは、日本の学校でいう勉強というのは、むしろ学問、修身に近いもので、
欧米のような科学とは少し違う。ノーベル賞とか論文とかは科学であって、学問ではない。
学問は、効率をむしろ嫌う。それは、筋肉トレーニングと似ている。キントレは、体を効率よく使うと効果があがらない。腕立てふせをするときに、ちょこちょこやったり、腹筋のときに反動をつけたり・・・だが、バットを振ったり、ボールを投げたり、走ったりするには、効率よく体を動かさねばならないのである。だから、腕立てを何回できたかを競ったりするのは、無意味なのである。キントレをやりすぎるとよくないというのは、ここに原因がある。

カツカレー

大坂なおみがセリーナウィリアムズを破って優勝した時のインタビューで「カツカレーが食べたい」というのを聞いてから、食べたくなった。 最近はカレーライス自体をほとんど食べることがなかった。 さらにそれにカツが入っているとなると重すぎる。 体調がよく空腹のときに何回か食べ...