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霞ヶ浦マラソン もうマラソンなんて・・・

もうマラソンなんてやらない。

あまり思い出したくないが、レースを振り返ろう。
1ヶ月前の腰痛と1週間前の軽い肉離れのせいで、最後の追い込みができなかった。そのくせグリコーゲンローディングの名の下に食べ過ぎてしまい、65kgになってしまった。
でも前日はよく眠れて、体調も万全だった。暑くなるのが心配で、実際暑くなったが、問題はそんなことではなかった。

ひざ痛も、左フクラも、腰も、なんともなかった。
しかし、荒川と同じような失敗をした。前半のオーバーペースと25km過ぎからの露骨な失速。折り返しで5:30ペースを切っていた。15kmくらいでは5:20ペースになっていたのだ。

なぜ飛ばしすぎたのか?十分な練習ができなかったことの不安の裏返しである。5:40ペースで走っても、どうせ30Km付近でペースダウンしてしまうのではないか、それなら前半に貯金をしておいた方がいいのではないか、ひょっとしたら前半いいペースだったらそのまま乗り切ってしまえるかもしれない・・・とはっきり意識したわけではないが、そんな心理が働いたのだろう。

ペースメーカーとして、ある女子を選んだ。小柄で、ぶれのないフォームで着実に走っている。しかし、どうも少し速い。ちょっと気を抜くと離されている。こりゃきついなと感じていたが10kmくらいで慣れてしまう。荒川の時と同じ。そして折り返し地点ではっと我に返る。あと半分だぞ?いままで走った距離と同じだけこれから走るんだぞ?20kmなら練習でも5分ペースで走ってどんなものかわかっている。しかし、それを2セット続けるのだ・・・まず心理的な不安が襲ってくる。体よりも心、もしくは頭が先にバテる。22Km、23Kmくらいから、ペース計算ができなくなってくるが、あきらかにペースは落ちているのがわかる。時計を見るのが怖くなってくる。4時間・・・無理だ・・・。

25Kmで食べようと思っていたアミノバイタルの錠剤を、少し手前で食べた。即効性はない。
25Kmで、ストップウォッチをゼロに戻して再スタートした。
6分を超えるペース。ということは4時間を越える。
一気にやる気が失せてくる。終盤のコースは家畜だか腐ったドブだかわからないが悪臭が漂う。道が狭く景色も殺風景だ。
給水のたびに歩くようになる。なんとか疲労を回復させようとバナナなどを食べる。バナナは、即効性があったように感じた。しかし、脚はどうにもならない。これは練習不足とオーバーペースによるものだ。

歩いたりとまったりを繰り返す。やたらに給水所が多い。1Kmおきくらいにあったんじゃないか。37Km。あと5Km。料金所だ。すぐじゃないか・・・でも脚が動かない。このときのペースはどれくらいだったろうか。もう時計を見ることもしなくなっていた。
40Km地点だったろうか?給水所もないのに歩きはじめた。そしてそのまま歩き続けた。歩けるのだから走れないこともないだろうとも思うが、どうしても走れない。走ったら足を痛めそうな気がした。
歩いてゴールしてやれ、と開き直った。

でもさすがにトラックを歩いてゴールするのは恥ずかしいし気が引ける。計測機のピーピーいう音が聞こえてきた。あと200メートルくらいのところからなんとか走りだす。感激のないゴールだったが、荒川の時の様な不完全燃焼感がなかったのだけはよかった。走り終わってへたり込んだ。呼吸や心臓ではない、足だ。足が弱い。
ほどなくしてペースメーカーだった女子がゴールしてきた。5分か10分くらい後だったと思う。もしあの子についていっていたとしても、結局最後はペースが落ちていたのかな、と思う。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。