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sexual harrassment in the work place


Zappaの名ギターアドリブ曲ですが・・・今の職場はセクハラが横行している最低な職場です。ほかにも、職場の環境、食堂のシステム等、不満は多々あるのですが、セクハラという醜く悲しい行為が蔓延しているのは、この企業のゆがみの象徴だと思っています。

ここで、一般に言われているセクハラというものが、本質と乖離していることを指摘したいと思います。一般的にはセクハラは「軽度の痴漢行為」と捉えられていますがセクハラの本質はそうではなく「性差別」です。性の差異につけこんで嫌がらせをすることです。ですから、女が男にセクハラをする、男が男に、女が女に、という事もあるわけです。典型的なセクハラは「女が家事・育児をすべきだ」という思想ですが、「男は力仕事をすべきだ」という思想も同じセクハラになるのです。この事はほとんど理解されていません。「セクハラ」という言葉は真剣な顔で発言されることはなく「あなたはスケベな人ですねちょっとやりすぎですよ、エヘヘ・・・」という意味で使われます。

私の思想は非常に古風で、封建的でさえありますが生活のために妥協しています。特に、働いて給料をもらうためにはほとんど別人格になる必要があります。最初はこの事は自分を偽ることであるという後ろめたさがありましたが今では当然のことであると考えられるようになりました。しかし勘違いして欲しくないのは、私はそれが社会に適応するための大人の行動である、などと考えているのではないという事です。「妥協」であることには間違いなく、それが妥協であることは自覚している必要があるのです。楽観的な人なら、人間性の醜さを感じない人なら、子供のように感情を表現して生活していくでしょう。そのように見える人もいます。しかし、私は誰もそんな事はできないと思っています。「素直で飾り気の無い人」と思われている人こそ、もっとも自分を隠して別人格をつくりだしている人と言えるでしょう。

セクハラが、その別人格の表出の典型なのです。セクハラとは、タブーをタブーでないと言う主張なのです。セックスしないと人類は滅んでしまう、という非常に低次元な大義のもとにいどまれるヒューマニズム復興運動なのです。私にも性欲はある・・・どころかそれは私の生きるテーマであるとさえ言えます。猥談をしたり週末に1、2時間その手の店で過ごして忘れられるような甘っちょろいものではないのです。会社の女の子を冷やかしたり昼休みに同僚とバカ話をする・・・これらの行為はわたしにはなんの喜びも与えないのです。我慢をしているわけではないのです。

そのような重要な問題は、単に糊口のための職場においては解決不可能です。職業というのは、私にとっては二の次のものです。カネがなくては何もはじまりませんが、わたしは時々、何も始める気がなくなってしまう事があるのです。

セクハラが横行している事と、精神・感情を病む人が多い事は一つの根源的な問題の二つの側面にすぎません。現在大企業においてはアウトソーシングと称して企業内に他者の人間を入れてさまざまな仕事を負担させています。企業内部の人間はプロパーと呼ばれますが、プロパーというのは日本の伝統である終身雇用と会社家族主義を根強く持っています。日本の企業の推進力はやはりそれらです。

しかし外部者にとって職場である企業は顧客にすぎません。顧客に対して良質のサービスを提供することは、非常に微弱ではありますが自分の報酬に反映します。それが現代の日本人の勤労意欲の根拠とされています。顧客に喜んでもらう事が目的ではなく、それによって自分が報酬を得る事が目的なのです。ですから、もし顧客の不満が自分の雇用を失わせたり報酬を減らす事がないならば、彼らが努力する理由はないのです。

しかし、プロパーは違います。大企業のプロパーは、入社した時点でほとんど生活を保障されており、その後の努力は生活とは別のことに対してささげられます。くだけて言うなら「生きがい」です。これはもはや経済活動ではありませんので、まったく合理性がないのです。プロパーと外部者にはこのような職業観の違いがあります。かくしてプロパーの職務遂行は非常に不合理なものです。さらにプロパーはおおむね裕福な家庭の出身で高学歴であり選民意識がるので外部者に不満を抱きがちになります。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。