異教徒

いつ頃だったろうか、社会人になって数年たって、毎日のあまりのつまらなさに退屈を通り越して憤りさえ覚え始めてついに踏み外してしまった頃、わたしは自分の思想を形にし始め、この頃それが固まりつつある。
簡単に言うと道徳と実践を重んじ、保身や損得のための屁理屈を厭うというのが基本姿勢である。

何を読んだのが初めてだったか、海外の小説で異教徒という言葉が出てきたときに、違和感を覚えた。この言葉は、重い意味では未開人を差別するように使うし、
軽い意味では田舎モノくらいの意味で使うようだが、どちらにしろキリスト教徒以外を認めないような独善排他的な姿勢に疑問を感じたものである。自分が異教徒でもあるし。しかしそれから数年、もう20年くらいたった今になって、その違和感の意味がわかってきた。

我々は異文化を常に平等にならべて客観的に評価するように教育されてきたのだが、それはキリスト教徒にとっては逆に違和感を感じることなのである。我々からしてみたらキリスト教徒が自分達を無条件に正しいとしてその世界観ですべてを判断している、と疑問に思うかもしれないが、キリスト教徒にしてみたら、何もかもを、キリスト教から仏教から無神論から共産主義までなにもかもを客観視できるそんな立場がありえるか?それこそ自分達の絶対視ではないか、と思うはずだ。

私もそのことを理解するには大変苦労した。「客観という名の偏見」から脱却するのに。この脱却が容易でないのは、脱却してしまうと無重力状態のように、自分を位置づけるものがなくなってしまうからだ。それはアイデンティティとか、よりどころとか言われているが、現在の日本にはそれがない。ついこないだまでは、それがあった。会社であったり、国家であったり、天皇であったり。今はもう、何もない。だから殺伐としている。自分の感情や主張をそのまま隠すことなくぶちまけあう。なぜ人を殺してはいけないのかなどということを、まじめに議論している始末。

では私はどうやって脱却したか。答えは簡単である。最初にでてきたクリスチャンになったのである。多分非公認だと思うが、私は自分はクリスチャンであると自覚している。

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