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職場に病人が多い理由

最近仕事でのコミュニケーションが難しくなっている。その理由は雇用関係と組織の多重化である。組織の多重化というのは、まずアウトソースで他社に業務を委託することがある。次に、派遣社員の利用。そして、委託先の企業が再委託をする、あるいは派遣社員を使うことになり、2重3重などあたりまえの雇用関係が生まれる。本当は業務委託や人材派遣の利用は雇用にはならず、雇用者として扱ってはならないのだが、実際には雇用者のようにあつかわざるを得ない。最近ニュースなどで「派遣社員など」という言われ方をするが、わたしは、正式な派遣事業者に登録した派遣社員というのはかなり特殊な存在であり、低所得であるとか雇用を圧迫するなど問題視される対象でもないと思っている。問題なのは業務委託された企業が再委託を行い、その雇用者を個人的に業務委託契約を結ぶという、偽装請負の方である。


ただし、今問題にしたいのは偽装請負の事ではない。これらの雇用関係と組織の多重が引き起こすコミュニケーションの難しさを指摘したい。第一の問題は、雇用と業務の階層が二重に存在する事。もう一つは、それらの階層が必要以上に深くなっている事。雇用の波を吸収したり人件費や福利厚生費を削減するためには階層が深くなってもあまり問題はないが、業務遂行のためにはなんのメリットもない。そしてその階層の深くなった組織では当然コミュニケーションが増大する。普通なら電話一本であるいは直接行って話しかけてすぐ解決することであっても、いったん上司を通し、その上司が別部署の上司へ連絡し、その部下に伝える。上司は問い合わせの事項についておたがい詳細を知らないから、ただ伝えるだけである。伝達漏れ、質問に対する再質問が発生することもある。

それからもう一つの問題は、メーリングリストの利用である。電子メールは、一度に大勢に送信できるので便利なようだが、それが便利なのはSPAMを送る時くらいであって、コミュニケーションとしてはあまりよいツールではないように思う。業務でもルーチン化された連絡ならMLでいいだろう。しかし議論やトラブルシューティングをMLでやるのは最悪。それらは別途電話や会議でやって、結果だけをまとめてMLで報告すべきである。・・・と言うのは簡単であるが、先ほど言ったように今は組織が多重に階層化されており、電話や会議といったナマなコミュニケーションをするのは一苦労である。やろうとしてもメールでいいじゃん、と言われかねない。そしてナマコミュニケーションをやると、その当事者の限られた人間しか知らない事が増えてしまう。たぶんその方が業務としてはうまくいくのかもしれない。

コンピュータが導入されてペーパーレス化が進むと思いきや逆に印刷物が増えた、というのは初期に見られたことである。最近はようやく紙が減ってきただろうか。私も印刷することはかなり減った。
これと同じ事が今、コミュニケーションでも起きているのではないだろうか。電子メールで世界中の人と簡単にコミュニケーションができるという触れ込みだったのにそれによって余計なコミュニケーションが発生している。これが静まって本当に電子メールの効用が現れるにはもう少し時間がかかる。

掲示板、ブログは非常に面白いのだが、これも炎上したり腐ったりすると手がつけられなくなる。この辺は1000レスで1スレッド終了とかdat落ちとか原則消さないとかいう2ちゃんねるのようなシステムが必要だ。2ちゃんねるには大きな問題があるがこれは別途述べたい。

コミュニケーションが重要、ということは組織で大人数で業務を遂行するうえでは誰もが思っていることだとは思うが、具体的にどうするべきかはあまり真剣に考えられていない。そして、とにかく何でも言え、ホウレンソウしろ、隠すな、飲み込むな、とよく言われるが、私はそれには反対だ。このスレッドを立てたのも、それらの中間管理職の悲鳴のような指示に対する疑問を抱いたからである。何でも言えばいいとは思わない。議論を重ねていい事と悪いことがある。私は隠したり飲み込んだりすることも大事なコミュニケーションの技術だと思う。あと、スルーも。あと、無礼さも。

この職場に病人が出るのは、忙しい時ではない。ヒマなときである。ヒマだけどなんかしなきゃいけない、ということで無理やり仕事をつくる。無理やり作った仕事だから効率化は考えられていない、むしろ非効率的なほうが人が使えて都合がよい。最初はそれでいいのだがそのうちその非効率さがストーム化していき残業が増えて人が足りなくなる。IT業界、情報システム産業、ソフトウェア開発、名前はなんでもいいが、この業界でデスマーチとか呼ばれる現象が発生するのは、やっぱり、しなくてもいい事をしようとしているから、に行き着く。

これはコンピュータや情報処理システムの本質と全く相反する。ITは業務を効率化して人手を減らすことを目指すものである。そのメリットは消極的なものである。新たに何かを生みはしない。新たに何かを生み出すのは、ITに非生産的な業務をまかせて余裕のできた人間がすることである。

最近不況の打開について、考えなくてもいい人までが、ヒラ社員や学生や主婦や芸能人までが、とやかく言いすぎだ。私も含めて。不況なんて、季節みたいなもので社会には避けられないものであり、そのうち改善するものでもある。それを永遠に根絶しようとするのはおろかだ。

私もこの業界に入りたての頃は、「コンピュータに使われてはならない、コンピュータは使うものだ」ということを肝に銘じていたのだが、最近それを忘れていた。完全に使われていた。奴等は奴隷以下の存在だ。奴等には感情はもちろん意志もないのだ。恐れる事はない。

もう一つ指摘したいのは、「仲良くなりすぎてはいけない」ということだ。これもコミュニケーションはすればいいというものではない、という事なのだが、つまり、あんまりプライバシーに立ち入ってはならない、仕事の後や休日にまで仕事仲間と付き合うのはよくない、ビジネスはビジネスで割り切って付き合おう、ということである。

A君というまだ新人同様の男がいる。非常に好青年で仕事もよくやっているのだが、彼が上司から怒られている。上司は怒っているのではなく心配し指導しているつもりらしいが、私から見ると怒っている。A君と、同じチームのメンバーの中が険悪になっている。ただ険悪になっているだけなら人間だから仕方ないが、彼は仕事以外に何かを始めたようなのである。その何かというのはあまり詳しく書けない。誰だかわかってしまうとかではなくて、何だかよくわからないからである。何だかわからないが、それをはじめたことによって、A君の性格が変わってしまったようなのである。また睡眠不足になったり、体調を崩したり、仕事を休んだりするようになった。

実はいま、この病人だらけの職場は非常にヒマなのである。毎日遊んでいるも同然なのである。私はそういう状況になれているので自分でヒマをつぶしているが、希望に燃えて就職した若者にしてみれば虚しくてたまらないだろう。俺はこんなことのために今まで勉強してきたのか。俺はこんなことをしてこのまま一生過ごしていくのか。そんなのはイヤだ!と思うだろう。私もそうだった。その気持ちはよくわかる。しかし彼の上司にしてみたらおもしろくないだろう。その気持ちもわかる。決め手はA君が職場の他の連中にも、自分のしていることをすすめた事のようだ。こうなってしまうと単なるプライバシーの問題ではなくなってくる。

しかし、私はこの同じ職場にいるX社がどうもよくわからない。なんだか仲がよすぎるというか、何もかもを上司に言い過ぎるというか。たとえばA君が何か始めたとして、それをすすめられたとしても、上司になんか言わないよね、普通。もし言うとしたって、プライベートなところで相談するよね、そうすべきだ。人として。

この上司をBさんとしよう。Bさんは私と同じくらいの年齢だが、会社家族主義なところがある。まあ今日本の企業に勤めていて家庭を持っているひとならそうなって当然かもしれないが。Bさんの部下にC君という病人がいる。メンタルな病人である。しかしBさんのC君への接し方は非常に危険である。つまり、厳しすぎるのである。C君が仮病で甘えているだけであったらそれでもいいかもしれないが。

私も傍で見ているだけで詳しい事情は知らないのでこれ以上は書けないが、言いたいことは、あんまり業務以外のことまで立ち入るのはよろしくない。病気になるのもそのせいじゃないのか。病気を治すのは上司の仕事じゃない。仕事で病気になったんだから仕事を忘れさせるべきじゃないのか。

この病人だらけの職場の問題をもう一つ指摘しよう。それは、急遽の依頼が多いことである。言い方こそやわらかいが実質命令である。そのため、おちおち仕事を休むことができない。もちろん一人でやっているわけではないのだが、この職場には人間を冗長化する発送がない。非常に個人依存度が高い。普通何かやったらその情報を共有しようとするものである。また個人で勝手に判断して仕事を進めることを戒めるものである。ここは組織だけは複雑で多重化されているのに、仕事のすすめ方はまったくフラットである。情報の共有も蓄積もない。ことなる部署間でのインタフェースも固まっていない。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。