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自民は負ける


2007/07/06(Fri) 21:07

7/21だっけ、選挙があるが、自民は相当苦戦すると思う。なぜなら多くの人が今まさに増税感を痛感しているからである。特に私は、去年収入がありがたいことに大幅に増えたので、所得税と地方税はただでさえ増加したのに加え、今回の税制変更で地方税が増えた。さらに、私は所得税の天引きがないが今年から予定納税をする事になって、1年分の所得税の1/4くらいを7月中に納税しなければならない。今年の所得税と地方税は去年のほぼ倍になる見込み。7/2までに納税しなければならなかった地方税の1期分と、所得税の予定納税の第一回分をあわせると、今月の給料の4割にもなってしまう。「これではせっかくの夏休みに旅行に行く事もできない!自民のバカ野郎!安倍のバカ野郎!大臣が自殺したり失言したり、もう自民には投票しない!」という人が増えるのではないだろうか。ちなみにわたしは少々不満ではあるが、反自民感情はまったくない。といってもここ5年くらい投票したことはないのだが。

2007/07/06(Fri) 21:08

非戦闘員に対する攻撃を非難するが、私は戦争で市民を攻撃してはいけない理由がよくわからない。スポーツじゃあるまいし戦争にルールなんかあるのかと思う。しかし日本は戦争末期に特攻隊のようなクレイジーな事をしているのである。実際国民総動員で戦争に望んでいたのではなかったか。アメリカだってこれは普通の攻撃では降伏しないだろう、と核兵器を使ったことは十分理解できる。

2007/07/24(Tue) 19:18

あれかこれかというキェルケゴールの著作がある。図書館で借りて少し読んだような記憶があるが、内容は覚えていない。この著作について知ったのは高校2年生のときの倫理の授業である。デカルト、ベーコンから始まってカント、ヘーゲル、ニーチェ、などに混じってキェルケゴールも紹介されていた。私はこの授業を非常に興奮して聴いた記憶がある。私は社会科があまり好きではなかったのだが、このときだけは興味を持った。あれかこれか、というのがどういう意味なのか、これはあまり理解されていないと思う。Oに、失くした1/2(alternative)という曲があるが、そういう意味だと思う。何かを捨てねばならない、という意味だ。あれかこれかには、単なる理屈ではなく、倫理的な意味が含まれている。そもそも哲学者とは、倫理について語る人たちであって、理屈だけをこねくり回す人ではなかった。

あれかこれか、というのがどういうことかを説明するためにその逆の例をあげる。
「運動も食事制限もせずに飲むだけでやせるダイエットをする」
「グリーン車に乗りたいが高い料金は払いたくない」
「Windowsに金は払いたくないのでP2Pで違法コピーする」
・・・何かを得るために何かを我慢する、捨てるという事。他人のために自分を犠牲にすること。

2007/07/29(Sun) 14:45

電車でお年寄りに席を譲る事は、はずかしいことである。だいたい電車に乗っていて座っている時点で負けである。よっぽど空いてなければ私は立っている。譲るときも、譲ってあげますよと親切を押し売りするのではなく、たまたま降りたんですよと思わせるくらい、若いのに座ってすみませんと申しわけなく思うくらいでなければならない。

久しぶりに選挙に行ってきた。誰が立候補しているかもろくにしらなかったが支持政党の候補者を選んで投票した。なんかもう、比例代表だけでいいんじゃないかという気がしてくる。候補者一人一人にたいして投票する意識なんかみんな持ってないだろう、もう。私が今回自民党が負けると思うのは、連日報道されている不祥事ではなく、増税があったからである。税源委譲というけれど、ほとんどの人は増税になっているし、所得税のないあるいは少ない人にとっては痛烈である。所得税がないという人たちは、選挙にもよくいくのではないだろうか。仕事をしているなら政治なんかに興味は持たないかもしれないが、年金で生活しているような人はまさに政治家に命を預けているようなものだからだ。だから自民党は負ける。勝つには、普段選挙に行かない、バリバリ働いている人、血気盛んな苦労知らずの若者、こういう人たちが投票するしかない、しかし無理だろう。まあ参議院なら負けてもいいのかな。なんか、自民にやる気が見られない。


このブログの人気の投稿

死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。