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やや好調

2007/12/06(Thu) 20:11

もうすぐ40歳になるのだが一向に体力低下を感じない。総合的には今がピークじゃないかと思えるほどである。食欲がやや落ちて酒量が増えて腹が多少出てきたが、気に病むほどではない。精神的にも丸くなったとか落ち着いたとか自制心が増したとかいうことはほとんど無い。いくらか対人恐怖が薄れたくらいである。よく年をとるとアタマが硬くなるといわれるがそれは嘘だ。若いほど頑固である。若いときは力ずくでなんとかなるせいもあるだろう。年をとると経験が増えるのでいろんなやり方のオプションが増える。だから無理なことをしないで効率よい行動がとれるようになるのである。若いときはどうしていいかわからないから、手探りで体当たりですすんでいくような行動になる。そのときには目的遂行の意志を強く持たないといけない。もうひとつよく言われるのが物忘れである。私はこれも肉体の機能低下ではないと思っている。年を取ると出会う人の数も増えるから覚える名前と顔もどんどん増えていくのである。そうなればそこから探して取り出すのが困難になっていくのは当然である。情報が増えれば階層化してしまったりまとめて圧縮したりする。それだけの話である。なんでこんなことを言っているのかというと、私は人間は本来死なないように創られたという話を聞いたことがあり、とてもおもしろいと思ったからである。まあ有名なので名前を出すとエホバの証人である。神にはエホバという固有の名前があること、輸血を拒否する事、誕生日を祝わない事、みんなそういわれるとそうだな、と納得できることである。乾杯もしない。私はこういう頑なで狂信的なものが大好きである。

2007/12/13(Thu) 20:10

私の1500mのベストタイムは5分ちょうどである。高校2年のときに記録した。これはなかなか速いタイムで、スポーツテストでは5分を切ると満点になる。それから15年くらいたって、ランニングを始めた。24時間TVでいろんな芸能人が走っていたのを見たのがきっかけだ。いきなりマラソンは無理だろうと、とりあえず20Kmのレースを申し込んだ。制限時間は1時間50分である。つまり、1Kmを5分30秒以内で走るペースである。とりあえず家の近所を走ってみた。しかし自分がどのくらいのペースで走っているのかがわからない。そこで自転車に取り付けて距離を測れる装置を買ってきた。そして自分が普段走っているコースの距離を測ってみると、1km5.5分というのがけっこう速いということがわかった。その頃走っていたコースは3キロ程度だったのだが、その距離でもやっとの速度なのだ。これは無理だ、と思いかけたが、一般市民が参加するレースの制限時間くらいはクリアできないとダメだ、と練習をつんでなんとか1h40minつまり1km 5分のペースで走りぬいた。その時に感じた達成感は自分の人生で5本の指に入るほどのものであった。それをきっかけにハーフマラソンや20kmレースを何度か走ってついにフルに挑戦した。初回はかなりの距離を歩いてしまったが2回目で4時間7分くらいで最後まで走りとおした。その後もう一回走ったがそれも歩いた。私はスピードがあるがスタミナがないようだ。マラソンを走るためには走法を変える必要がある。ピッチ走法で、ひざが痛まないように内股ぎみに走る。ぴょんぴょんはねてはいけない。我慢我慢でちょこちょこ走る。そうしないとフルは走りきれなかった。

話がそれたが、私はマラソンのためにランニングをしていたころ、1500mのタイムをはかってみたら5:15だったのだ。35歳くらいだったと思う。つまり、体力的に中高生のときと変わらない、それを言いたかったんです。

2007/12/16(Sun) 16:41

久しぶりに一歩を殴った。180台が精一杯だった。職務質問でむかついたのをモチベーションに転換した。ついでに背筋力もやった。201が出た。握力は51だった。この辺は年を取るほど向上している。背筋力は毎日チャリンコで坂を上っているときに鍛えられたのだと思う。私は水虫持ちだったんですが最近治りました。足の指の間がくさくてたまらなかったんですがね。いつの間にか治りました。

2007/12/20(Thu) 02:09

私はくしゃみをするときにハンカチを口にあてる。防音の意味もあるのだが実はもっとやむにやまれぬ事情がって、10年くらい前からくしゃみをするとほぼ100%タンが飛び出てしまうようになったのである。くしゃみがでそうになるともう体の自由が奪われて、きっと大変なマヌケ顔になっていると思う。そしてくしゃみをすると自分でも気づかないくらい高速にタンが飛び出て、目の前の壁などに付着しているのである。外ならまあいいが、オフィスなどでそれをやって他人の机にタンを飛ばしたりしたら大変である。だから私はハンカチを口にあてるようになったのである。ほぼ毎回、ハンカチにタンが吐き出されている。

しかし身の回りでそんなことをしている人はいない。みんな平気で飛沫をまきちらしている。とびあがってしまうくらい、大きな声でハックション!という人もいる。あと、やたら鼻をグスングスンしている人もいる。グスングスンというか、フンガーフンガーというか、豚のように鼻を鳴らす人。あれは何なんだろうか?明らかに故意に鳴らしているよね?

2007/12/23(Sun) 13:03

元阪神のキーオが酒乱になってしまったらしい。飲酒運転で何度かつかまっているとか。彼は頭部にデッドボールを受けて死に掛けて、それ以来人がかわってしまったそうだ。私も高校生のときラグビーをしていて脳震盪を起こしたことがある。そういえば泥酔して泣いたりわめいたりするようになったのはその頃からだ。ただ酒を飲み始めたのもその頃だからそのせいかどうかはわからない。浪費も、引きこもりも、そのせいじゃないかな。でもそうだとしてもどうにもならないからどうでもいいや。

2007/12/30(Sun) 04:43

胸焼けぎみだ。胃よりももっと上の方。私はすぐお腹が痛くなる。子供のころからいっつもお腹が痛かった。下痢になることが多かったがそうでなくてもなんだかわからないがお腹が常に痛かった。30歳を超えるころからだんだんそれが減ってきたように思う。神経性だったのだろうか。今回の胸焼けは飲みすぎによる。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。