ITer達

昨日、ある有名人のインタビューを読んだ。私とほぼ同い年の、プログラマである。有名なブロガーでもあり、書評によるアフィリエイト収入が本業より多く、金持ちらしい。最近彼のブログを読むようになったが、そんなにおもしろくない。本も純文学や古典はなくて、ビジネス書みたいなものが多い。さすがにプログラミングとかITの話になると参考になるどころか何を言ってるのかわからないほどである。写真も大きなものが何枚か載っていたので顔もじっくり見ることができた。同い年には見えない貫禄であるが、特徴的なのはよく言えば少年のような、くりっとした目である。しかし、この目はどこか虚ろで、腑抜けたようにも見える。実は私も、そういう目をしている。なんだか、びっくりしたような、きょとんとしたような、途方にくれたような目である。外を歩いていても時々見かける。私が推測するに、人と面と向かって話さないで、モニタとかテレビとかばかりを見ているとそういう目になってしまうのではないかと思う。本は別である。文字によって引き起こされる印象は、テレビやパソコンのモニタに映るそれらよりも格段に精妙である。読むものにもよるが。作家はそんな目をしていない。

それから、ITer達はコンテンツに感知しない。それは主義でもある。形式だけを作る。中身はどうでもよい。それはうわべだけとりつくろうとか、見た目だけ気にするとかいうこととはちょっと違う。だから、彼らの書く文章はだいたい軽妙であざ笑うような調子であるが、強いこだわりとかポリシーのようなものがない。あるとすれば、こだわらないというこだわりくらいである。否定的なこだわりである。マーフィーの法則のような逆説も好む。そういう人間も、カッコいいかもしれない。とくにその道を極めていればクセも個性という魅力になってしまう。でも私はダンコとしてそういう人間にはなりたくない。私は枠の中身にこだわりたい。最近枠を作ったほうが楽だし儲かるんだという事に気づき始めたのだが、やっぱり私は中身を作るひとに、中身のある人になりたい。

おいしいもの(4)

31: 2008/01/09(Wed) 19:23
日曜日、久しぶりにビビンパハウスのカルビ麺を食べた。
ビビンパハウスである。断じてビビンバではない。
最高である。750円であの味はすごい。オムニ食堂のユッケジャンよりうまい。
高麗、両班、どっちも敵じゃない。
32: 2008/01/24(Thu) 19:41
私の職場にコーヒーの自動販売機がある。缶コーヒーではなくてちゃんとドリップしてくれるタイプである。先日、ほとんど透明なコーヒーが出てきた。一瞬ボタンを押し間違えたのかと思ったが毎日押しているボタンだし、周りにそんな色の飲み物が出てくるボタンはない。結局故障時の連絡先に電話してお金は返してもらった。多分故障だったのだろうと、違う販売機まで歩いていって買ってきた。それからしばらくしてまた薄いのがでてきた。まだ1ヶ月くらいしかたっていない。前回ほどではないが明らかに薄い。この頻度の高さは単なる故障ではないな、とにらんだ。まず考えられるのは、コーヒーを濃い目にした場合の考慮ミスである。
この販売機ではコーヒー、砂糖、ミルクの量を増やせる。わたしはだいたいブラックでコーヒーの量を最大にして飲んでいる。濃くするのはどうやっているのかわからないが、通常より早く粉がなくなるはずである。この販売機はそれを考慮していないか、考慮しても計算を間違えて、もうコーヒーが出ない状態に達しているのに売り切れランプを点灯できていないのではないだろうか?

そう考えておかしいなと思ったことがある。前回初めて出がらしコーヒーに出くわした時に、違うコーヒーのボタンを押してみたら同じように出がらしだったのである。銘柄が違うのだから、粉も違うはずだ。そうすると粉の残量判定のミスではなく、粉の出口が詰まるなどしているのではないだろうか?
33: 2008/01/27(Sun) 12:10
カルビ麺。うまい。あれを食べると何もかも忘れる。すべてを許せる。
34: 2008/02/01(Fri) 09:56
牛乳をレンジであたため、ネスカフェと砂糖を入れる。最高。
35: 2008/02/16(Sat) 22:30
24時間何も食べていなかったのでさすがに空腹になって中華料理屋に入った。時々行く店で、特にうまいわけではないのだが空腹を満たすにはよい。チャーハンが食べたかったのだがチャーハンがない。チャーハンがない中華料理屋ってどういうこった。本当は北海の味噌ラーメンが食べたかった。あそこのC定食は最高である。味噌ラーメンとチャーハンとザーサイのセットで850円だったかな。辰吉みたいな怖い顔の男が作るチャーハンは絶品である。
36: 2008/02/16(Sat) 22:33
しかし入った店の味噌ラーメンはあまりうまくないことを知っている。麺は太くて固めで好みなのにもったいない。そうそう、この店は麺がよいのである。しかしスープなどがうまくない。
名前は忘れたが辛い麺と、ライスと、そしてなんの躊躇もなく餃子を頼んだ。
37: 2008/02/16(Sat) 22:37
4時ごろだったので店は空いていた。食べていると一人の客が入ってきて、カウンターの一番はじに座った。40代後半くらいの、眼のパッチリしたおっさんである。「何にしようかな・・・」と大きな声で言っている。
そしてさらに大きな声で「絶対に安全な餃子!」と言ってガハハハハと笑った。私は顔を伏せた。注文をとる太った女も厨房にいる二人も、すくなくとも言葉は返さなかった。愛想笑いくらいはしているかなとそーっと厨房を伺うと、二人ともまったくの無表情だった。
38: 2008/02/16(Sat) 22:41
それからその男は、歯が折れてしまって仮の差し歯をしているから堅いものが噛めないなどということを大きな声でしゃべり始めた。なんだか妙なノリである。吉原でいい思いをしてきたようなノリだ。歯の話には注文取りの女も話をあわせて、そうですか、大変ですね、などとあいづちをうっている。瓶ビールを頼んだのだが半分くらいのんでいらなくなった。
お腹も一杯である。食が細くなった。酒ばかり飲んでいる。病気になるぞ。

殺人はどうしていけないのか

殺人犯だって、刑務所から出てきたら普通の人である。しばらくは犯罪人名簿に名前がのるようだがその後犯罪を犯さなければそれも消える。前科があると海外旅行で制限を受ける以外には普通に暮らしていける。真人間になったとみなされるのである。破産も同様である。破産することによる生活への影響はほとんどない。また、浪費では破産できないことになっているらしいが本当に破産できないことは非常にまれなようだ。

しかし、よほど心の広い人でなければ、人殺しや破産者をまともな人とは見ないだろう。むしろ真面目な人ほど否定的に見るだろう。それは当然である。だから、法律的に罪がないというのは非常に表面的というか、いいカゲンなものであり、逆に言えば私は法律に触れることはしていません、と威張るのも虚しいことである。違法を犯していないのと犯したことがないのは違うと思う人もいるだろうが、そもそも法律は刑期を終えればその人を罪がなくなるとみなしているのだから、犯していないのも、犯したけど償ったのも法的には同じなのである。

そのように、前科者に対して人が偏見の目を持つことを非難するつもりはない。刑期を終えようが賠償金を払おうが被害者は帰ってこないし、内心はまったく反省していないかもしれない。罪によっては反省していたとしても許せないこともあるだろう。うらんだり仕返しをしてはならないが、心情的に許せないということはある。という事は、思い切っていうと法にふれるかどうかは重要な問題ではないのだ。そういう、明文化されていないけれど人が守るべきもの、常識とかコモンローとか、不文律というようなものが存在する、という事は誰にも否定できないだろう。そんなものは無い、明文化された法律や契約書だけを守っていれば文句ないだろう、という人は、自分の家族を殺した犯人が刑期を終えて目の前に現れた事を想像してみて欲しい。

法律というのは、その不文律に仕える存在である。だから法律だって変わるのである。もし明文化された法律が絶対なら変えることは許されないはずだ。新しい法律を作ることもおかしい。それらの事は、明文化されていない絶対的な法というものがあることを示している。殺人はどうしていけないのか、ともし自分の子供にきかれたら、わたしならこのように説明する。殺人がどうとか言う前に、善悪というもの自体が、明文化されていないのである。何が正しくて何が悪いのか。その判断の基準となるものが存在することは誰もがわかっているはずだ。そして、それが法律ではないということも。

盗撮?

今朝遭遇したこと。私が通勤で使う駅の階段を上ろうとしたら、私の前に若い女の子がいた。黒いタイトスカートをはいていて、正直、見とれた。そしてその子の後ろをついていくように階段をのぼっていたら、私とその女の子の間に若い男が割り込んできた。私は内心チッとしたうちをしてそのまま階段を上っていたら、その右側を私より少し若いくらいの男が早足にのぼっていった。そして、私の前にいる男の肩をチョンと叩いた。知り合いなのかな、と思ったがその男は数秒こちら側を見たと思ったら何も言わずに去っていった。そのときの顔は友人にあいさつしている顔ではない、険しいものだった。前の男が遅いのでわたしもその男を抜かそうとすると、彼は携帯電話をもっていて、シャリーンという音がした。そう、彼は女の子のオシリを撮影していたのである。抜かした男はそれを注意したのである。わたしは、まるで自分が注意されたような恥ずかしい気持ちになった。

般若心経について

私は3年ほど前に般若心経を暗記した。有名なものなので内容はさておいてとりあえず暗記してみたのである。2,3日で覚えた。しかし最近になって暗唱しようとしたらできなかったので、再度暗記して、覚えた。そしてこの時、いくつか疑問を抱いたのである。

これは最初に暗記したときからなんとなく感じていた事であるが、今回はとりあえずそれを記録しておきたいと思った。まず、この短いお経が、仏教の真髄だという事に対する疑問である。大般若経だけで600巻あるとか。ほかにもたくさんある。2,3読んでみたこともある。そのお経のエッセンスが般若心経であるなどという事は、あんな短いお経にまとめるなどという事は無理に決まっている、と思える。

次に、般若心経には、「般若ハラミッタ」の内容が書かれていない。観自在菩薩が、般若ハラミッタを行じているときに語った言葉である。行じるというのは、それを研究している、とでも言ったらよいのだろうか。その時に、シャリシに向かって、何もかもが無であると語り、だからボダイサッタやサンゼ諸仏は般若ハラミッタを唱えて悟りの境地に達した、般若ハラミッタは一切の苦を取り除く、究極の知恵である、すばらしいよ、般若ハラミッタは。という内容になっている。

「般若ハラミッタは素晴らしい」と言っているだけで、じゃあ般若ハラミッタとは何なのかは一切語られていない。また、般若ハラミッタを唱えればアノクタラサンミャクサンボダイが得られるというが、
それは般若心経の事か?般若心経とはハンニャハラミッタは素晴らしいといっているものであり、
ハンニャハラミッタそのものではない。もしくは、ギャテイギャテイ・・・と唱えることと同じである、といっているから、ギャテイギャテイ・・・を唱えればいい、という事なのだろうか?ナムアミダブツと同じように。クリスチャンがただイエスを主であると信仰しさえすればよい、というように。

般若心経そのものに疑問はあるが、言っている事に注目すべき内容もある。ハンニャハラミッタが必要な前提である、何もかもが無である、という説明である。まず、シキ=クウである。同様にして、ジュソウギョウシキも(クウである?)クウであるので、不であるものショウ・滅、ク・ジョウ、増・減。
それゆえに、無シキ 無ジュソウギョウシキ 無眼耳鼻舌身意それに対応する色声香味触法無眼界(目に見える世界)無意識界(意識の世界、精神世界?目に見えない世界?)無明は無く、無明が尽きることもない。老いて死ぬこともないし、老いて死ぬ事がなくなることも無い。苦が無くなる道はない。知ることも、得るものもない。

なんだか、やたらめったら無である無であると言っていて、もう「何もかもが無である、この世のすべては虚妄である」と言ってもらいたくなるが、多分、そういう意味ではないのだろう。ダライラマの仏教入門とかいう本で、「現象はどれひとつとしてそのもの自身で存在しているものはない」と言っていた。そういうと現代人は納得してしまうだろう。なんだかすべては相対的なもので観察者の主観により組み立てられているにすぎないのだ、と考えれば楽になるような気がする。しかし私は無というのはそんな簡単なものだとは思わない。

般若心経を語った人が、聞いた人に求めるリアクションとは、そんな事言ったって私は毎日シキショウコウミソクホウをありありと感じている、無だなんて嘘だ、少なくとも無であるとわかったところでどうにもならない!!というものである。

我々は朝起きて太陽が昇ってくるのを見る。それは実は太陽の周りを地球が回っているんだとかさらには地球は丸いんだとか重力で引き合っているとか太陽との距離は何十万キロあるとか、そんなことは知識として知ってはいても、われわれにとって重要で真実なのは東から上ってくる、ということのほうだ。何もかもが無である、という知識もそれと同じようなものである。


また忘れている。

まあ全然思い出していないから無理もないのだが。
しかし今回の忘れっぷりはひどかったので、少しショックだった。
二日酔い気味でもあったからな。

般若心経を覚えていたら、子供の頃風呂で母親におそわった遊びで、あわぶくたったというのがあったのを思い出した。「あわぶく」「わぶく」「あぶく」のどれかはあいまいである。あーぶくたった煮え立った、煮えたかどうか食べてみよう、トントントン、何の音?カゼの音。あーよかった。トントントン、何の音?おばけの音!!!ワー!というもの。

どんな詩だったかなとサーチしてみると、棚にしまって布団をしいて寝ましょうとかいうのがあったが、そんな下世話な歌詞ではなかった。ずいずいずっころばしも教わった。

般若心経を再度暗記していて気づいた事。後半にボダイサッタとサンゼショブツの成功談みたいなフレーズがあるが、彼らが成功した要因は二つあって、ひとつは無であり、もうひとつが依般若ハラミッタである。では我々も成功するにはどうしたらいいのか。無であることは悟った、とまではいかないまでもなんとなくわかる。では、般若はらみったとは何か?以前にも書いたが般若心経は般若ハラミッタであなたも悟れます、という何かの広告みたいなお経である。肝心の般若ハラミッタとは何かということがわからないのである。わたしの今の般若心経にたいするスタンスは、なにこれ怪しいなそんなうまい話あるかよ、というものである。

なんだか書きたくなって、筆ペンで書いて見た。何回か書いているうちに密じゃなくて蜜であるとかに気づいたが、だいたい漢字は当て字のようなものだからどうでもいいっちゃいいんだよな。

別に不安でたまらないとか自分を見つめなおすとか、そんなつもりはまったくない。以前になんだか無性にキュウリを薄く刻みたくなったことがあったが、それと似た感じだ。

外国語を理解するために必要なこと

久しぶりの海外出張に行って感じたのは、翻訳ツールの充実ぶりである。 誰もがもっているスマートフォンでは無料で使用できる翻訳アプリが使える。 パソコンではgoogle翻訳をはじめとして、これも無料で使える翻訳サイトがたくさんあり、翻訳の精度もずいぶん向上した。 アプリ等...