殺人はどうしていけないのか

殺人犯だって、刑務所から出てきたら普通の人である。しばらくは犯罪人名簿に名前がのるようだがその後犯罪を犯さなければそれも消える。前科があると海外旅行で制限を受ける以外には普通に暮らしていける。真人間になったとみなされるのである。破産も同様である。破産することによる生活への影響はほとんどない。また、浪費では破産できないことになっているらしいが本当に破産できないことは非常にまれなようだ。

しかし、よほど心の広い人でなければ、人殺しや破産者をまともな人とは見ないだろう。むしろ真面目な人ほど否定的に見るだろう。それは当然である。だから、法律的に罪がないというのは非常に表面的というか、いいカゲンなものであり、逆に言えば私は法律に触れることはしていません、と威張るのも虚しいことである。違法を犯していないのと犯したことがないのは違うと思う人もいるだろうが、そもそも法律は刑期を終えればその人を罪がなくなるとみなしているのだから、犯していないのも、犯したけど償ったのも法的には同じなのである。

そのように、前科者に対して人が偏見の目を持つことを非難するつもりはない。刑期を終えようが賠償金を払おうが被害者は帰ってこないし、内心はまったく反省していないかもしれない。罪によっては反省していたとしても許せないこともあるだろう。うらんだり仕返しをしてはならないが、心情的に許せないということはある。という事は、思い切っていうと法にふれるかどうかは重要な問題ではないのだ。そういう、明文化されていないけれど人が守るべきもの、常識とかコモンローとか、不文律というようなものが存在する、という事は誰にも否定できないだろう。そんなものは無い、明文化された法律や契約書だけを守っていれば文句ないだろう、という人は、自分の家族を殺した犯人が刑期を終えて目の前に現れた事を想像してみて欲しい。

法律というのは、その不文律に仕える存在である。だから法律だって変わるのである。もし明文化された法律が絶対なら変えることは許されないはずだ。新しい法律を作ることもおかしい。それらの事は、明文化されていない絶対的な法というものがあることを示している。殺人はどうしていけないのか、ともし自分の子供にきかれたら、わたしならこのように説明する。殺人がどうとか言う前に、善悪というもの自体が、明文化されていないのである。何が正しくて何が悪いのか。その判断の基準となるものが存在することは誰もがわかっているはずだ。そして、それが法律ではないということも。

禁酒 2019

禁酒した。 1/7から。 年末年始の休み中、体調がすぐれず、 酒も食事もまずい。 最終的には女房にやめろと言われて、やめた。 何度か禁酒したことはあり、いつもすぐ体調がよくなってそれまで酒を飲んでいたことがバカらしくなったものだが、 今回はそれがない。 そ...