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タックル


08/06/10(Tue) 01:18

レッドソックスのピッチャーがnonoをやった。「がんを克服した投手が・・・」という見出しがあちこちに見られた。「がんを克服」「がんに打ち克つ」「がんを退治」「がんをやっつける」・・・という、がんは悪者であるという言い方に、私は違和感を覚える。イラストでも、がんだけでなく、各種ウィルスなども悪人顔で描かれる。私は父ががんになり入院し手術し死んでいくのを見て、がんを悪者とすることに違和感を覚えた。がんに限らず、病気全般にいえることであるが、病気というのは多くは病人に、そしておそらくほとんどは人間の行為に原因がある。父は自分がガンになったのは生活習慣のせいであると、反省とまではいかないが後悔していた。酒、タバコ、偏食、不摂生、過食、過労・・・これらが病気のきっかけとなる。しかし、私が思うには、病気の本当の原因はウィルスとか遺伝子の異常ではなくて、今あげたような人の行い、生活習慣、もっというと生き様、心がけ、のほうなのだ。
自分もそうだが、多くの人が、こんなことをしていたら病気になると思いつつ、快楽などに負けて欲望に流されて生きていく。それは、あきらかに自然ではない欲望である。胃がもたれるほど食べたり、もたれるようなものばかり食べるのが悪い。仕事などで悩んだりストレスで病気になる人もいるが、それは欲望に流されたとはいえないが、やはり自然現象ではない。ゆがんだ職場の組織や人間関係が引き起こしている。病気は自然の嫌がらせではなく、警告であったり、全体を守るための部分の機能停止であったりするのだ。だからわたしは病気を悪魔のように忌み嫌うことは、間違っていると思う。

08/06/12(Thu) 03:48

昨日は3時くらいまで眠れなくて、今日はつらかった。食事をして眠くてたまらず、8時くらいに寝てしまった。かなり寝た感じで目覚めたら11時半。風呂入って、目がさえて、たばこ吸って酒飲んでもうすぐ4時。

08/06/23(Mon) 20:59

私は高校時代ラグビーをしていてポジションはフランカーだった。フランカーというのはタックル屋である。フォワードだが第3列と言って、走り回ってフォワードとバックスの連携を取るような役割である。攻撃時には、スクラムからボールが出るとそれを追いかけて、モールやラックの基点となる。2次攻撃につなげられるか、相手にボールを取られるかの重要な役割だ。守備時には、相手のラインに沿ってこれもボールを追いかけるように飛び出す。もし内側に切れ込んできたらタックルする。外へ展開されれば内から外へ追い出すような感じでディフェンスしていきバックスがタックルすればそこでやはりモールやラックの基点をつくり、バックスがとめられなければ自分でタックルする。このときの動きは羊の群れを見張る犬のような動きである。

タックルと言うのは日常的にも使う言葉で、人が体をぶつけることを広くいうが、ラグビーのタックルはただの体当たりではない。自分の肩を、相手の足に当てて腕で締めて動けなくする。ぶつかるというよりも、足にワッカをかけるような感じだ。ただし最近ではボールを殺すタックルが推奨されているようだ。つまり足ではなく上半身に抱きつくような感じ。足に入るタックルは、きれいにきまると非常に気持ちがよく、それほど衝撃もない。タックルと言うといかにも体と体のぶつかりあいという感じがするが、まともにぶつかるのは痛いとか怖いとかもあるが、相手を止めにくい。自分が走っているときに、大きな肉の塊が前からやってきたら身構えて突き飛ばすだろう。しかし、もし二本の足を縛るようにガシっとワッカがはまったらどうすることもできない。ラグビーのタックルの基本は後者である。

アタマから突っ込んでいるように見えるが、ちゃんと進行方向の後ろにアタマを入れて蹴られないようにしている。逆にしてしまうとひざで顔を蹴られる。そして肩を腿にぶつける。ちゃんと入ればまず倒れるし、タックルした方もそんなに痛くない。

コツは、低く行くことである。もう、四つんばいになるくらいに低く、できればひざくらいを狙って。これがなかなかできないのだが。わたしは毎日練習していて、常に地を這うような姿勢で走りまわっていた。そしてサンドバックのような、中身は布なのだが、タックル練習用ダミーに向かってタックルする。低く入れば痛くない。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。