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断酒

08/09/22(Mon) 21:01

また来た。もう、紛れもない放散痛だ。虫歯でも胸焼けでも寝違えでもない。酒を飲みすぎて寝ると起きる、心臓あるいはその他の臓器の痛みが、放散して歯や胸の痛みとなっているのだ、もう間違いない。何時ごろだったかわからない。時計を見るのも億劫だった。もう外は少し明るくなっていたかな?昨日はだるくて一日中家にいて、昼間に2、3時間昼寝した。が、疲れは取れず、頭もスッキリするわけでもなかった。昼に缶ビールを一本、夕食前に一本、夕食後に一本。しばらくして、500を一本、さいごに日本酒を1合強。飲みすぎだな。

08/09/27(Sat) 11:58

というわけで、さすがに断酒をした。月曜から金曜の夜まで、酒は飲まなかった。体調はすぐに回復、というわけにはいかない。むしろなんだかぼーっとしてしまい、自転車こぎもおっくうに感じる。
だが、これがどういう状態なのか、私にはわかっている。私は酒もたばこも、数年やって数年やめた経験がある。やめたばかりの頃には、「やめたから健康になる」という過剰な期待がうまれるのにそれほど大きな変化がないため、「別にやめてもあまり意味がない」と思いがちなものである。また、「俺は酒もタバコもやめた意志の強い男だ」と、シラフの状態を過大評価する傾向もある。酒やタバコが体によくないのは間違いないが、それさえやめていれば心身ともに健康になれることが保証されるわけでもない。ストレス、過食、夜更かし、偏食など、心身を蝕むものは世の中にごろごろしている。だから、酒のような嗜好品を断ったときに肝心なのは、それを気にしすぎないことである。断ったのがたいしたことでなければ、また飲み始めることもたいしたことではない。別に強制でもなんでもなく、自分の意志で、好みで、酒を飲むのをやめたのさ、と軽く考えることである。「飲んじゃいけない、誘惑に負けちゃいけない、飲みたいけど我慢、我慢」そのように考えてしまったらダメだ。体調をくずしたとか、酒をきっかけに事件や事故を起こしたようなときには、一時的にそういう考えも必要かもしれない。しかし、そういう考えを持っている時点ですでに酒に依存していることを忘れてはならない。本当に依存を断ち切るには、飲んじゃいけないという気持ちにすらなってはいけない。わかりやすい例で言えば、飲まず食わず眠らず本もテレビもなし、極寒あるいは酷暑、もちろん禁欲、そういう環境におかれれば、酒を飲みたいなどという衝動が、人間のもつ欲望のなかでどれだけ優先度の低いものであるかがわかるだろう。つまり、自らすすんで体を蝕むような嗜好品におぼれるというのは、それだけ自分の生活に安住している、生活のための生活になってしまっている、ということである。・・・と書いている私は今、酒を飲もうかなと思い始めている。そして私は知っている、あるていどの期間断酒したあとに飲む酒が、あまりうまくないことを。そして、その酒がうまくないことによって再び断酒することは稀で、あれおかしいなと飲酒を重ねて、酒のうまさを思い出すように、ふたたび飲酒におぼれていくことを。たばこも同じである。あの手のものは、始めてしばらくたって、依存性がでてき始めの頃が一番「うまい」と感じるのである。依存。でも、人間、何かしらに依存しているものである。gotta serve somebody というdylanの曲がある。

it may be the devil or it may be the Lord But you're gonna have to serve somebody

これが究極であり、酒、仕事、女あるいは男、ギャンブル、金、権力、名誉、家庭、親、兄弟、友人・・・・だから私には、簡単に「強くなれ、自分に負けるな、依存を断ち切れ」というような事はいえない。あるものの依存を断ち切るには、それよりはマシな何かに依存させるしか方法はなくて、人生とは、より高次の物へと依存の対象を切り替えていくことなのではないかと思っている。でも、devilとLoadの間をいったりきたりして一生を過ごす人がほとんどなのだろう・・・。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。