ad

2009年2月22日日曜日

吾妻鏡 頼朝の死

それでは頼朝の死の記述を見てみよう。


建久10(1199)年1月13日・・・無い。

建久6年12月22日~10年2月6日の記述が無いのである。


「吾妻鏡には落馬が原因で亡くなったとある」とあちこちに書いてあるが、

その記述は、1221年つまり死後12年たった時のものなのである。


建暦二年・二月二十八日


廿八日 乙巳 相摸國、相摸河橋、數箇間、朽損。可
被加修理之由、義村申之。如相州廣元朝臣善信、有
群議。去建久九年、重成法師、新造之、遂供養之日、爲
結縁之、故 將軍家渡御、及還路、有御落馬、不經幾
程、薨給畢。重成法師、又逢殃。旁非吉事。今更強雖不
有再興、何事之有哉之趣、一同之旨、申御前之處、仰
云、故 將軍薨御者、執武家權柄、二十年。令極官位
給後、御事也。重成法師者、依己之不義、蒙天絶歟。全
非橋建立之過。此上、一切不可稱不吉有彼橋、爲二
所御參詣要路、無民庶往反之煩、其利非一、不顛倒
以前、早可加修復之旨、被仰出〈云云〉


ここに確かに「故 將軍家渡御、及還路、有御落馬、不經幾程、薨給畢

と書いてある。


この話の意味だが、多分、こういうことだ。


相模川の橋が古くなって壊れてきたが、

この橋は頼朝が亡くなったきっかけとなった不吉な橋だから、

修理しなくてよいのではないかと、天皇に申し上げたところ、

天皇がそれは偶然だ、橋は有用だから早く治しなさい、

と仰せられた。



このときの天皇は順徳天皇、将軍は実朝の次の・・・

と思ったらなんと不在。

4代将軍は藤原頼経なのだが、1219年で2歳で、

元服した翌年の嘉禄元(1226)年に将軍となるまで、

将軍は不在だったそうだ。