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2009年2月23日月曜日

吾妻鏡 実朝の最期

太宰治の「右大臣実朝」にも引用されていた。

行列のメンバーの部分は省略。



建保七年・正月二十七日


廿七日 戊子 入夜雪降、積二尺餘。今日將軍家
右大臣爲拜賀、御參鶴岳八幡宮。御社參、酉尅。御出
行列、

(略)

令入宮寺樓門御之時、右京兆、俄有心神御違例事、
譲御劔於仲章朝臣、退去給、於神宮寺、御拜脱之後、
令歸小野御亭給。及夜陰、神拜事終、漸令退出御之
處、當宮別當阿闍梨公暁、窺來于石階之際、取劔奉
侵承相。其後隨兵等、雖馳駕于宮中、〈武田五郎信光、進先登。〉
無所覽讎敵、或人云、於上宮之砌、別當公暁、討父敵

之由、被名謁〈云云〉。就之各襲到于件雪下本坊。彼門弟
惡僧等、籠于其内、相戰處、長尾新六定景子息、太郎
景茂、同次郎胤景等、諍先登〈云云〉。勇士之赴戦場法、以
為美談。遂悪僧敗北、阿闍梨、不坐此所給軍兵空退
散、諸人惘然之外無他。爰阿闍梨、持彼御首被向于
後見備中阿闍梨之雪下北谷宅。羞膳間。猶不放手
於御首〈云云〉被遣使者弥源大兵衛尉〈阿闍梨乳母子〉於義村、
今有将軍之闕吾専当、東関之長。早可廻計議之由
被示合。是義村息男、駒若丸、依列門弟云、恃其好之

故歟。義村、聞此事。不忘先君恩化之間、落涙数行、更
不及言語小選先可有光臨于蓬屋。且可献御迎兵
士之由申之。使者退去之後、発使者、件趣、告於右京
兆〈云云〉。無左右、可奉誅阿闍梨之由、下知給之間、招聚
一族等、凝評定。阿闍梨者、太足武勇、非直也人。輙不
可謀之。頗為難儀之由、各相議之処、義村、令撰勇敢之
器。差長尾新六定景於討手。定景、遂〈雪下合戦後、向義村宅〉不

能辞退、起座、着黒皮威甲、相具雑賀次郎〈西国住人、強力者也。〉
以下郎従五人、赴于阿闍梨在所、備中阿闍梨宅之
刻、阿闍梨者、義村使、遅引之間、登鶴岡後面之峰、擬
至于義村宅。仍與定景相逢途中。雑賀次郎忽懐阿
闍梨、互諍雌雄処、定景、取太刀、梟阿闍梨〈着素絹衣腹巻之上〉
首。是金吾将軍〈頼家〉御息、母賀茂六郎重長、〈為朝孫女也。〉公
胤僧正入室、貞暁僧都、受法弟子也。定景、持彼首、帰
畢。即義村、持参京兆御亭、々主出居、被見其首。安東
次郎忠家。取指燭。李部被仰云、正未奉見阿闍梨之
面、猶有疑胎〈云云〉。抑今日、勝事兼示。爰異事非一、所謂、
及御出立之期、前大膳大夫入道參進申云、覺阿成
人之後、未知涙之浮面、而今、奉眤近之處、落涙難禁
是非直也事、定可有子細歟。東大寺供養之日、任右
大將軍御出之例、御束帶之下、可令著腹巻給〈云云〉。仲
章朝臣申云、昇大臣大將之人、未有其式〈云云〉。仍被止
之。又公氏、候御鬢之處、自抜御鬢一筋、稱記念賜之。
次覽庭梅、詠禁忌和歌給。
 出テイナバ主ナキ宿ト成ヌトモ、軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ
次御出南門之時、靈鳩頻鳴囀、自車下給之刻、被突
折雄劒〈云云〉。又今夜中、可紀阿闍梨群黨之旨、自二位
家、被仰下。信濃國住人、中野太郎助能、生虜少輔阿
闍梨勝圓、具參右京兆御亭。是爲彼受法師也〈云云〉。



鶴岡八幡宮にて、雪の降る夜のこと。

二尺あまりというと、60センチ以上か、大雪だ。


「父の仇を討つ」と言ったとか、「食事の間も首を手放さなかった」という記述がある。


省略してしまったが大変な人数が参列していたのに、

殺すことはできたとしても、首まで持ち去ることなど可能なのだろうか。

みんな逃げてしまったのだろうか?