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2009年2月22日日曜日

吾妻鏡 腰越状

壇ノ浦の合戦後、鎌倉入りしようとして腰越に留め置かれたときに、

頼朝に出したという手紙、いわゆる「腰越状」。

このときはまだ伊予守ではないので「源廷尉」となっている。

検非違使のことか?


元暦二年・五月二十四日


廿四日 戊午 源廷尉〈義經〉、如思平朝敵訖。剰相
具前内府、參上。其賞兼不疑之處、日來依有不儀之
聞、忽蒙御氣色、不被入鎌倉中、於腰越驛、徒渉日之
間、愁欝之餘、付因播前司廣元、奉一通款状。廣元、雖
披覽之。敢無分明仰、追可有左右之由〈云云〉。
彼書云

 左衛門少尉源義經、乍恐申上候。意趣者、被撰御
 代官其一、爲 勅宣之御使、傾 朝敵、顯累代弓
 箭之藝、雪會稽耻辱。可被抽賞之處、思外依虎口
 讒言、被黙止莫太之勲功、義經無犯而蒙咎、有功
 雖無誤、蒙御勘氣之間、空沈紅涙。倩案事意、良藥
 苦口、忠言逆耳。先言也。因茲、不被糺讒者實否、不
 被入鎌倉中之間、不能述素意、徒送數日。當于此
 時、永不奉拜恩顔、骨肉同胞之儀、既似空。宿運之
 極處歟。將又感先世之業因歟。悲哉此條、故亡父
 尊靈、不再誕給者、誰人申披愚意之悲歎、何輩垂
 哀憐哉。事新申状、雖似述懐、義經、受身體髪膚於
 父母、不経幾時節、故頭殿御他界之間、成孤。被抱
 母之懐中。赴大和國宇多郡龍門之牧以來、一日
 片時不住安堵之思、雖存無甲斐之命、京都之経
 廻難治之間、令流行諸國、隠身於在々所々、爲栖
 邊土遠國、被服仕土民百姓等。然而幸慶忽純熟
 而爲平家一族追討、令上洛之手合、誅戮木曽義
 仲之後、爲責傾平氏、或時峨々巖石策駿馬、不顧
 爲敵亡命、或時漫々大海、凌風波之難、不痛沈身
 於海底、懸骸於鯨鯢之腮、加之爲甲冑於枕、爲弓
 箭於業。本意併奉休亡魂憤、欲遂年來宿望之外、
 無他事。剰義經、補任五位尉之条。當家之面目、希
 代之重職、何事加之哉。雖然今愁深歎切。自非佛神
 御助之外者。爭達愁訴、因茲以諸神諸社牛王寳
 印之裏、不插野心之旨、奉請驚日本國中大小神
 祇冥道、雖書進數通起請文、猶以無御宥免。我國
 神國也、神不可禀非禮、所憑非于他。偏仰貴殿廣
 大之御慈悲、伺便宜。令達高聞被廻秘計、被優無
 誤之旨預芳免者、及積善之餘慶於家門、永傳榮
 花於子孫、仍開年來之愁眉、得一期之安寧、不書
 盡愚詞、併令省略候畢。欲被垂賢察義經恐惶謹
 言
  元暦二年五月日
     左衛門少尉源義經
 進上 因幡前司殿

本当にこんな手紙を書いたのか真偽が疑わしいそうだが、

そもそもこのころ手紙は漢文で書かれていたのか?

かな文字なんか武士は使わなかったのか?

それはともかく、こんな手紙が公開されるだろうか?