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2009年2月22日日曜日

吾妻鏡 義経の最期

義経が死んだときの記述。


文治五年・閏四月三十日

卅日 己未 今日於陸奥國、泰衡襲源豫州。是且
任勅定、且依二品仰也。豫州。在民部少輔基成朝臣
衣河舘。泰衡從兵數百騎、馳至其所、合戰。豫州家人
等、雖相防、悉以敗績。豫州入持佛堂、先害妻〈廿二〉子、
〈女子四歳〉次自殺〈云云〉。


短い。2ちゃんねるのレスみたいだ。


義経は「豫州」と書かれている。

伊予守だったかららしい。


首実検。

死んでから1ヶ月半たっている。


文治五年・六月十三日

十三日 辛丑 泰衡使者、新田冠者高平、持參豫
州首於腰越浦、言上事由。仍爲加實檢、遣和田太郎
義盛、梶原平三景時等於彼所。各著甲直垂、相具甲
冑郎從二十騎、件首納黒漆櫃、浸美酒、高平僕從二
人、荷擔之昔蘓公者、自擔其■、今高平者、令人荷彼
首。觀者皆拭雙涙、濕兩衫〈云云〉。


漆のハコに酒漬けにされていたそうである。

「腰越浦」。あの腰越海岸か・・・

やっぱり俺は義経に呼ばれてるな・・