ad

2009年2月9日月曜日

みんなが気持ちよくなるには


私は優柔不断でケアレスミスが多くて、確認不十分な仮定や憶測に基づいて話したりする。あまりよくないことではあるが、仕事をしていく上ではやむをえない。自分が納得したことや確信のあることについてしか語らなかったり行動しない人のできる仕事は非常に限られる。わたしの身近にもそういう人がいて、すっかり仕事が回ってこない。納得できないことや知らないことを拒絶していればミスも起こらないしストレスもないだろうが、それでは何も新しいものは得られない。最近、その人を見ていて、自分のいい加減さを戒めているのだが、かといって、自分のやり方をすべて否定することもない。私は私で貴重な存在である。私のやり方だってそれなりのリスクというか痛みを背負っているのである。たぶんあまり楽しいやり方ではない。でも私のような存在は絶対に必要であると信じている。

つらいところは、学ぶことと仕事するということが相反する場合があることである。私は「ビジネス」という言葉が嫌いである。仕事というのはどんなものでもサービスであって、お客を満足させるためにおこなうもので、報酬はそれに付随するに過ぎない。報酬を得るためにお客にサービスするのは卑しいことだ。わたしは頭もよくないし腕もないけど、それだけは忘れまいと思っている。

今いる職場に感じる強い違和感の理由は、たぶん「職人気質」だと思う。職人気質というのは技術に誇りを持った求道者のようなよい意味で使われる場合が多いが、私は職人気質は有害であると考えている。職人気質というのは、客のためではなく、自分の満足のために仕事をしているようなところがあるからだ。

私のもっている職業観では、極端なことを言うと客が望むならあえて低品質のサービスを提供することも厭わない。職人はそれを拒むだろう。たとえ客が望まなくてもいいかげんなモノは作れないと譲らない。もちろん、能力や時間に余裕があるならそうすることはもちろんいいことだ。しかし、我々の仕事は複数の組織が関わる複雑な関係の中でおこなわれる。その中で主客の関係もさまざまであり、「客」も階層をつくって存在している。客、メーカー、下請けという階層でいえば下請けの直接の客はメーカーであるが、最終的な客は商品を買う一般人であるという意味である。下請けの客はメーカーだから、その後のことは知らない、という考え方は私は絶対にできない。してはならないと考えている。最近の不祥事はこの意識がないことで起きているのではないだろうか。自分の直接の顧客であるメーカーさえ満足していれば客なんかどうだっていい、品質が悪かろうと客はわからないさ、と。

低品質のサービスを提供するという場合というのは、品質をあげることでコストがかかったり発売が遅れたりするくらいなら、最低限の品質で安いものを早く提供したほうがよい、ということである。吉野家の発想である。


私が嫌いな言葉。

「納期」「リスク」「コスト」「ビジネス」「スキル」「食っていく・食えない」「クライアント」「生き残る・勝ち抜く」「出世」

「クライアント」というのは、消費者ではない取引先のことをさすときに使われるのだと思うが、意味はお客さんである。今はほとんどの人は消費者ではなく取引先のことしか考えない。わたしは取引先との関係なんか、友達程度にしか考えない。そう、パートナーである。協力してお客さんにサービスを提供しましょう、という考えである。そのパートナーに対して駆け引きをするようなマネは、できないしみっともないと思う。

先ほど「発売が遅れる」と書いたのも、「納期」と書きかけてあえてそれを避けたのである。納期というのは取引先を対象に考えた言葉である。もちろんそれを守らなければ発売が遅れるのであるが、納期というと、私には言われたとおりに納めたから文句ないでしょ、後はよろしくね、という無責任さが感じられてならない。「納期を守れ、納期を守りました」というのは責任があるかのように使われるが、わたしはむしろ責任逃れであると思う。

職人気質の弊害の、別のケースは、自分が納得できないモノは売らない、という場合。椅子を作るのはいいが、机は作ったことないからできない。いいかげんなモノを売るのは俺のポリシーに反する、という場合である。または、木の桶しか作らない、プラスチックなんか使ってられるか、というようなこだわり。

私は古臭い考えがすきだが、職人気質はよろしくないと思っている。つまりは、何が最優先か、ということである。自分が気持ちよくなることは最後に考えるのである。一人ひとりが気持ちよければ全体が気持ちよくなる、なんてことはないのだ。自分が気持ちよくなろうとすると全体が不幸になり結局は自分自身も不幸になる。みんなが自分の気持ちよさを我慢して全体のために尽くしたとき、ようやくみんなが気持ちよくなれるのである。

これはキレイごとでも幻想でもなく、これこそが厳しい現実であると、私は信じている。残念ながら私の考えはほとんどの人に受け入れられないが、私はこのことだけは忘れたくない。