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みんなが気持ちよくなるには


私は優柔不断でケアレスミスが多くて、確認不十分な仮定や憶測に基づいて話したりする。あまりよくないことではあるが、仕事をしていく上ではやむをえない。自分が納得したことや確信のあることについてしか語らなかったり行動しない人のできる仕事は非常に限られる。わたしの身近にもそういう人がいて、すっかり仕事が回ってこない。納得できないことや知らないことを拒絶していればミスも起こらないしストレスもないだろうが、それでは何も新しいものは得られない。最近、その人を見ていて、自分のいい加減さを戒めているのだが、かといって、自分のやり方をすべて否定することもない。私は私で貴重な存在である。私のやり方だってそれなりのリスクというか痛みを背負っているのである。たぶんあまり楽しいやり方ではない。でも私のような存在は絶対に必要であると信じている。

つらいところは、学ぶことと仕事するということが相反する場合があることである。私は「ビジネス」という言葉が嫌いである。仕事というのはどんなものでもサービスであって、お客を満足させるためにおこなうもので、報酬はそれに付随するに過ぎない。報酬を得るためにお客にサービスするのは卑しいことだ。わたしは頭もよくないし腕もないけど、それだけは忘れまいと思っている。

今いる職場に感じる強い違和感の理由は、たぶん「職人気質」だと思う。職人気質というのは技術に誇りを持った求道者のようなよい意味で使われる場合が多いが、私は職人気質は有害であると考えている。職人気質というのは、客のためではなく、自分の満足のために仕事をしているようなところがあるからだ。

私のもっている職業観では、極端なことを言うと客が望むならあえて低品質のサービスを提供することも厭わない。職人はそれを拒むだろう。たとえ客が望まなくてもいいかげんなモノは作れないと譲らない。もちろん、能力や時間に余裕があるならそうすることはもちろんいいことだ。しかし、我々の仕事は複数の組織が関わる複雑な関係の中でおこなわれる。その中で主客の関係もさまざまであり、「客」も階層をつくって存在している。客、メーカー、下請けという階層でいえば下請けの直接の客はメーカーであるが、最終的な客は商品を買う一般人であるという意味である。下請けの客はメーカーだから、その後のことは知らない、という考え方は私は絶対にできない。してはならないと考えている。最近の不祥事はこの意識がないことで起きているのではないだろうか。自分の直接の顧客であるメーカーさえ満足していれば客なんかどうだっていい、品質が悪かろうと客はわからないさ、と。

低品質のサービスを提供するという場合というのは、品質をあげることでコストがかかったり発売が遅れたりするくらいなら、最低限の品質で安いものを早く提供したほうがよい、ということである。吉野家の発想である。


私が嫌いな言葉。

「納期」「リスク」「コスト」「ビジネス」「スキル」「食っていく・食えない」「クライアント」「生き残る・勝ち抜く」「出世」

「クライアント」というのは、消費者ではない取引先のことをさすときに使われるのだと思うが、意味はお客さんである。今はほとんどの人は消費者ではなく取引先のことしか考えない。わたしは取引先との関係なんか、友達程度にしか考えない。そう、パートナーである。協力してお客さんにサービスを提供しましょう、という考えである。そのパートナーに対して駆け引きをするようなマネは、できないしみっともないと思う。

先ほど「発売が遅れる」と書いたのも、「納期」と書きかけてあえてそれを避けたのである。納期というのは取引先を対象に考えた言葉である。もちろんそれを守らなければ発売が遅れるのであるが、納期というと、私には言われたとおりに納めたから文句ないでしょ、後はよろしくね、という無責任さが感じられてならない。「納期を守れ、納期を守りました」というのは責任があるかのように使われるが、わたしはむしろ責任逃れであると思う。

職人気質の弊害の、別のケースは、自分が納得できないモノは売らない、という場合。椅子を作るのはいいが、机は作ったことないからできない。いいかげんなモノを売るのは俺のポリシーに反する、という場合である。または、木の桶しか作らない、プラスチックなんか使ってられるか、というようなこだわり。

私は古臭い考えがすきだが、職人気質はよろしくないと思っている。つまりは、何が最優先か、ということである。自分が気持ちよくなることは最後に考えるのである。一人ひとりが気持ちよければ全体が気持ちよくなる、なんてことはないのだ。自分が気持ちよくなろうとすると全体が不幸になり結局は自分自身も不幸になる。みんなが自分の気持ちよさを我慢して全体のために尽くしたとき、ようやくみんなが気持ちよくなれるのである。

これはキレイごとでも幻想でもなく、これこそが厳しい現実であると、私は信じている。残念ながら私の考えはほとんどの人に受け入れられないが、私はこのことだけは忘れたくない。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。