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2009年12月29日火曜日

断酒

以下の文章は今年の夏に3ヶ月くらい断酒したときに書いたものである。



酒は・・・やめるのは大変。


前回やめたのはおととしの4月、約1ヶ月だった。


その後は、飲みすぎた後に1・2日やめることはあっても、
ある程度の禁酒はしてない。
毎日飲み続けていたということだ。


ビールやチューハイなので、そんなに酷い依存というわけでもないと思う。
テレビを見て笑ったり音楽を聴いて歌ったりというご機嫌な酒だ。

ただし時々鬼のような形相になって昔の嫌なことを思い出して
どうにもならなくなることが、最近も、ちょくちょくある。


そういう状態は本当に嫌だ。
自分にもなんのメリットもないし。

しかし、そういう状態から抜け出すために必要なのは、叱咤激励でもなければ、
軽蔑でもなければ、医学的な説明でもない。

今までも何度かあったのだが、今回もそうである。
あまり言いたくないが、スピリチュアルなお話である。


酒に限らない。
人をののしったり反社会的な行為をしないこと、
人を愛すること、贅沢や浪費をしないこと、あくどい金儲けをしないこと、
それらの根拠となるものは、リリジャスなものでしかないのだ。


私は、物心ついたときから今まで、リリジャスなものに包まれている自覚があった。
それはみんなそうだと思っていたが、どうやら違うようである。
そして私は時々それを不快に感じたり、そのせいで自分の可能性が閉ざされているような気がして、抜け出してみようとしたが、結局はそこへ戻ってきた。
リリジャスなものは私を守ってくれる。心を落ち着かせ、冷静にさせ、怒りなどまったくわいてこず、むしろ悲しくなるくらいである。


金儲けもできないし肉体的な力もないし快感もない。
しかし心は澄んだ湖のようになれる。


ただし今回の断酒の動機には少し不純なところがある。


酒を飲むと安らかに死ねない、という話を聞いて、やめたのだ。


説明すると長くなるし誰の話かわかってしまうので言わないが、
寝酒はかえって睡眠の質を低下させるというのと同じようなことである。


眠るということは、本当に死と似ている。
起きているときによく動いて、食べて、全力で生きた日は、よく眠れる。
めざめも良い。めざめがよければまたその日も全力で生きられて、
よく眠れる。眠りにつく瞬間も気持ちが良い。


だらだら生きたり、やましいことがあれば眠れない。余計なことを考えて
おかしな夢をみたりうなされたりする。


私は毎日酒を飲んでいるが、それをいいことだとは思っていない。
酒は百薬の長だとか、ストレス解消だとか思って飲んでいるのではない。
酔っ払うために、ドラッグ感覚で飲んでいる。
そして、飲酒が悪であることを自覚していることで、私がかろうじて救われる可能性を残しているのだと思っている。


私の知り合いに、酒を飲むことを楽しんでいる者がいる。
彼は私のように毎日毎日飲んでいるわけではないようだが、
酒を飲むことが好きなようだ。
そして、彼は酒は適量なら健康によく、ストレス解消にもなると考えている。
だが、私はそういう考えが大嫌いだ。
考えというより、事実として、酒を飲むことでいいことなど何もないと信じている。


酒そのものもよくないのだが、
飲酒は、いろんな悪徳を呼び寄せる。
美食、多淫、暴力、自棄、皮肉、妬み、後悔、傲慢、怠惰・・・


私の父はよく酒を飲んでいた。
酔っ払って乱れるようなことこそなかったが、
毎日、ウィスキーの水割りを飲んでいた。
そして、夕食が終わってしばらくすると、
ときどき子供達を呼び出して、まるで学校の教師のような、
よそよそしい、説教ではないが、人生のアドバイスのようなことをした。
私がもういい年になった頃には、父はシラフで私に口をきくことはないのはもちろん、
目を合わせることすらしなくなった。


父はガンになった。
そして、苦しみながら死んでいった。
わたしはかわいそうだと思うのと同じくらいに、
自分はこんな風にはなりたくないと思った。


そして、酒飲みは苦しんで死ぬ、という話が、非常に納得できる。
私も、酔っ払うという一時的な卑怯とも言える快楽におぼれたせいで、
日常がどんどんつらくつまらなく苦痛になっているのを嫌というほど感じている。
このままうまくもない楽しくもない酒をのんで朦朧として生きていったら
行き着く先はまさに地獄だろう。