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断酒

以下の文章は今年の夏に3ヶ月くらい断酒したときに書いたものである。



酒は・・・やめるのは大変。


前回やめたのはおととしの4月、約1ヶ月だった。


その後は、飲みすぎた後に1・2日やめることはあっても、
ある程度の禁酒はしてない。
毎日飲み続けていたということだ。


ビールやチューハイなので、そんなに酷い依存というわけでもないと思う。
テレビを見て笑ったり音楽を聴いて歌ったりというご機嫌な酒だ。

ただし時々鬼のような形相になって昔の嫌なことを思い出して
どうにもならなくなることが、最近も、ちょくちょくある。


そういう状態は本当に嫌だ。
自分にもなんのメリットもないし。

しかし、そういう状態から抜け出すために必要なのは、叱咤激励でもなければ、
軽蔑でもなければ、医学的な説明でもない。

今までも何度かあったのだが、今回もそうである。
あまり言いたくないが、スピリチュアルなお話である。


酒に限らない。
人をののしったり反社会的な行為をしないこと、
人を愛すること、贅沢や浪費をしないこと、あくどい金儲けをしないこと、
それらの根拠となるものは、リリジャスなものでしかないのだ。


私は、物心ついたときから今まで、リリジャスなものに包まれている自覚があった。
それはみんなそうだと思っていたが、どうやら違うようである。
そして私は時々それを不快に感じたり、そのせいで自分の可能性が閉ざされているような気がして、抜け出してみようとしたが、結局はそこへ戻ってきた。
リリジャスなものは私を守ってくれる。心を落ち着かせ、冷静にさせ、怒りなどまったくわいてこず、むしろ悲しくなるくらいである。


金儲けもできないし肉体的な力もないし快感もない。
しかし心は澄んだ湖のようになれる。


ただし今回の断酒の動機には少し不純なところがある。


酒を飲むと安らかに死ねない、という話を聞いて、やめたのだ。


説明すると長くなるし誰の話かわかってしまうので言わないが、
寝酒はかえって睡眠の質を低下させるというのと同じようなことである。


眠るということは、本当に死と似ている。
起きているときによく動いて、食べて、全力で生きた日は、よく眠れる。
めざめも良い。めざめがよければまたその日も全力で生きられて、
よく眠れる。眠りにつく瞬間も気持ちが良い。


だらだら生きたり、やましいことがあれば眠れない。余計なことを考えて
おかしな夢をみたりうなされたりする。


私は毎日酒を飲んでいるが、それをいいことだとは思っていない。
酒は百薬の長だとか、ストレス解消だとか思って飲んでいるのではない。
酔っ払うために、ドラッグ感覚で飲んでいる。
そして、飲酒が悪であることを自覚していることで、私がかろうじて救われる可能性を残しているのだと思っている。


私の知り合いに、酒を飲むことを楽しんでいる者がいる。
彼は私のように毎日毎日飲んでいるわけではないようだが、
酒を飲むことが好きなようだ。
そして、彼は酒は適量なら健康によく、ストレス解消にもなると考えている。
だが、私はそういう考えが大嫌いだ。
考えというより、事実として、酒を飲むことでいいことなど何もないと信じている。


酒そのものもよくないのだが、
飲酒は、いろんな悪徳を呼び寄せる。
美食、多淫、暴力、自棄、皮肉、妬み、後悔、傲慢、怠惰・・・


私の父はよく酒を飲んでいた。
酔っ払って乱れるようなことこそなかったが、
毎日、ウィスキーの水割りを飲んでいた。
そして、夕食が終わってしばらくすると、
ときどき子供達を呼び出して、まるで学校の教師のような、
よそよそしい、説教ではないが、人生のアドバイスのようなことをした。
私がもういい年になった頃には、父はシラフで私に口をきくことはないのはもちろん、
目を合わせることすらしなくなった。


父はガンになった。
そして、苦しみながら死んでいった。
わたしはかわいそうだと思うのと同じくらいに、
自分はこんな風にはなりたくないと思った。


そして、酒飲みは苦しんで死ぬ、という話が、非常に納得できる。
私も、酔っ払うという一時的な卑怯とも言える快楽におぼれたせいで、
日常がどんどんつらくつまらなく苦痛になっているのを嫌というほど感じている。
このままうまくもない楽しくもない酒をのんで朦朧として生きていったら
行き着く先はまさに地獄だろう。



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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。