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2010年1月2日土曜日

自殺にまつわるエトセトラ


自殺とは、自分自身を消し去ってしまいたい、という欲求だと思います。わたしもよく考えます。しかし、どうしてもできません。死ぬ事自体が怖いのと家族がかわいそうというのが理由ですが、死の欲求が強まったら衝動的にしてしまうのではと不安です。よく言われる「自殺すると地獄へ行く」「自殺は卑怯だ」については、納得できません。そこで、自分で納得できるような、自殺を否定する理由を考えるのです。

自己ってなんでしょうか?自己は肉体ではなく、肉体の機能の事でもありません。それなら死を考える事はできないからです。もし自己=肉体であれば、死と共に自己は消滅するでしょうが、私はどうしてもそうなるとは考えられません。自己が死を考えているという事は、死は自己の外にあります。もし自殺を実行したら、自己はその完遂を確認しようとするでしょう。しかし、今まで肉体を通してしか認識できなかった自己を、肉体を失った後でどうやって認識するのでしょう?

私は丹波哲郎が言っているような霊界は存在すると思っています。地獄・天国と呼ばれるような世界も。天使や閻魔大王のようなものも。神も悪魔も。それらの詳細については諸説ありますが、大まかな感じでは、すべて存在すると。

眠りから覚めるとき、自分が肉体に戻っていく感覚がわかる事があります。肉体を着る、という感覚です。怪我や病気をしていると、その痛みや苦しみが、目覚めよりかすかに遅れてやってくる。眠る事は、死と非常に似ている。眠りたくても眠れない事がある。眠りは時として非常に甘美であり、眠りそのものを願う事さえある。

そしてまた、私はこんな奇妙な考えを持つことがあります。自分は既に死んでいるのではないか?何だか、自分は過去に自殺したような気がしてくるのです。今の自分は「お化け」である、という感覚。お化けとは自分の死が自覚できないものである、という事を聞いた事があります。自分はもしかして死んでいるのではないか・・・?

目をつぶって眠れずに寝床にいる時など、強烈に自己を意識します。過去の事を思い出して自己嫌悪に陥ったり、未来を考えて不安になったり絶望したり(ちなみにこれも布団に入って書いてます)。ところが、寝床を出て顔を洗ったり食事をしたり、歩いたり電車に乗ったりしているうちに、
自己よりも外界や他人に対する意識が大きくなっていき、寝床で悩んでいた事がちっぽけに思えて、むしろ自己嫌悪していた自分を嫌悪します。この状態が、一般に言う「精神的に健康な状態」です。

しかし、それは本当は自己を忘れているのに過ぎない。臭いものにフタをしただけに過ぎない。問題を先送りにしただけに過ぎない。ほとんどの人は、そのまま一生を過ごす。自己を忘れて肉体の欲望のおもむくままに生きる。自殺を願うのは、それができなくなった人です。肉体の欲望の喜びが、自己意識より小さくなってしまった人。そして、自己意識とは、罪悪感ではないでしょうか。

「キリスト教は自殺を禁じている」という言葉をよく聞きます。いろいろ宗派があるとかイエスはそんなこと言ってないとかいう意見もあるかもしれませんが、そういう事が言われるのも、自己意識が罪悪感と関連しているからだと思います。罪を意識したときに、それが許されないと考えると自殺する。許されると考えれば信仰する。罪は人間の法律違反の事でないのはもちろんですが、それも含まれます。狭義には罪は違法の事ですが、それを突き詰めていくと、自己に到達します。そして悩む。喜ばない。

なぜ自己に到達すると悩むのでしょうか?私はまず、こう考えました。「人間は生まれながら悪い存在である、だから自己を意識すると罪悪感にかられる。」しかし、そうだとすると、「なぜ罪を罪であると自覚できるのか?」という疑問がわく。次にこう考えました。「自己を意識する事が間違っている。自己を意識する事、それこそが原罪である」。アダムとエバは主に食べるなと命じられた善悪を知る木の実を食べた後、何をしたか?イチジクの葉を腰に巻いたのだ。まさに自意識ではないか。
そして私は自己を意識すまいと努めた。「客観的になれ」と言う言葉は、実は罪深いことで、主観的にならねばならない。主観的になって悪い存在は、存在自体が悪いのである。この考えはほとんど悟りに近いものがありました。自分だけで到達した考えでもないのですが。ですが、いずれの考えも間違っていたのは、今、再び強烈に自己を意識し絶望している事で明らかです。


以前に私は自殺がなぜいけないのか、自殺をしてはいけない理由をある場所にながながと書いたことがある。今それをここに載せようと思ったのだが途中から自分の半生を振り返っていて載せるのには不適当なので要旨だけを載せたい。『自殺は残された人がたまらなく悲しいからやめようね。』これだけである。もし、自分が死んでも悲しむ人などどこにもいない、という確信があるのなら、死んでもいいだろう。私は若きウェルテルの悩みでウェルテルが自殺肯定論を述べるところが大好きだ。

なんだかんだ言っても、自殺がどうして悪いかを答えられる人はいない。死んだらどうなるかが誰もわからないからだ。もし死んだら何もかも無になってしまうのなら、耐え難い苦しみを持っている人に死なせないのは残酷だろう。

丹波哲郎みたいに、人は霊界から修行のために現世に来ており自殺はその修行から逃げることだ、という考えも、誰も本当かどうかわからない。わからなくていいのだ。死んでしまえば何もかもチャラになるだろう。家族や知人は悲しむかもしれないが、生きていることで何もよいことをしていず、人に迷惑をかけることしかしない存在なら、死んでしまったほうがいい。困難を解決するのが一番いいけど、そう簡単に解決できることなら自殺なんか考えない。それから人が死ぬのは単に経済的に困ったとか社会的に失敗したとか言うことだけではない、感情的、心情的に傷つき痛みをかかえたときに死をもってしかそれを止めることができないようなことがあるのだ。


あるサイトによると、平成15年の自殺者は32109人。別のサイトによると、同年の交通事故死者数は7702人。自殺者が多いとは知っていたが、交通事故死よりもこれほど多いとは思わなかった。
クルマの免許をとるために教習所に通っていたときに、学科を担当していた教官が交通事故死について話してくれたのだが、毎年毎年、まるで交通事故で死ぬ人数が決められているかのように一定の人間が交通事故で死んでいくそうである。自殺もそれと同じようなものではないか。

最近、マンションの9階の部屋に引っ越した。今まで2階より高い部屋に住んだことはなく、高いところに住むのは嫌だと思っていたのだが、たまたま空いていて安い部屋が9階だったので、まあいっかと引っ越した。エレベータで上り下りするから、時間や距離的な不便というのはほとんどない。しかし、玄関のドアを開けて外へでるとき、帰ってくるとき、バルコニーに出て洗濯物を干すときなどに、なんだか吸い込まれそうな感覚をおぼえる。それは、飛び降りたくなると言ってもいいような、誘惑に近いものである。別に人生に絶望しているわけでも、生きる楽しみがなにもなくて死んでしまいたいわけでもない。もちろん、飛び降りたときのことを考え、地面にたたきつけられたときの苦痛を考えてぞっとするのだが、何かがわたしを誘惑する。部屋の中にいても、衝動的にドアか窓を開けて、飛び降りてしまうようなことがあっても不思議ではないと感じる。意外さで言えば、それ以上の意外な突拍子もないとんでもない行動をするのは日常茶飯事だからだ。9階から飛び降りることなんて、晩飯に1万円使う程度の敷居の高さだ。

そんなことを考えて思い出したのが、ある俳優の転落事故である。彼は本当に9階から飛び降りた。そしてなんと、フェンスにぶつかって一命をとりとめた。事件当時も驚いたことは驚いたのだが、あらためて当時の状況を調べてみたら、彼はただ飛び降りたのではなく、どうやら相当の勢いで前方にジャンプしたようである。マンションのバルコニーだからある程度の高さの手すりのようなものがあるはずだから、助走をつけて飛んだのではなく、水泳の飛び込みのように、手すりを思い切り蹴って飛んだのだろう。どうしてそんな事をしたのかはわからないが、彼は自殺をこころみたことは間違いない。たまたま助かっただけである。

親しい人が自殺したときに、「馬鹿野郎」とか「卑怯者」とか言ったり、見知らぬ人であれば「迷惑」「弱虫」などといったりする。それに拍車をかけたのは金八先生だろう。しかし、たとえそれが借金苦であろうと、薬物中毒の果てであろうと、良心の呵責であろうと、死をもって償うというのは、相当な覚悟がいることである。私は、それがどんなに卑怯な動機であろうと、死者にはせめて黙祷をささげるだろう。モクトウとは何か?祈りである。祈りとは何か?あなたは今まで、祈ったことがあるだろうか?受験の発表のとき?何か失敗をしたとき?病気になったとき?親が危篤になったとき?とにかく、わたしは死んだ人は責めない。