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自殺にまつわるエトセトラ


自殺とは、自分自身を消し去ってしまいたい、という欲求だと思います。わたしもよく考えます。しかし、どうしてもできません。死ぬ事自体が怖いのと家族がかわいそうというのが理由ですが、死の欲求が強まったら衝動的にしてしまうのではと不安です。よく言われる「自殺すると地獄へ行く」「自殺は卑怯だ」については、納得できません。そこで、自分で納得できるような、自殺を否定する理由を考えるのです。

自己ってなんでしょうか?自己は肉体ではなく、肉体の機能の事でもありません。それなら死を考える事はできないからです。もし自己=肉体であれば、死と共に自己は消滅するでしょうが、私はどうしてもそうなるとは考えられません。自己が死を考えているという事は、死は自己の外にあります。もし自殺を実行したら、自己はその完遂を確認しようとするでしょう。しかし、今まで肉体を通してしか認識できなかった自己を、肉体を失った後でどうやって認識するのでしょう?

私は丹波哲郎が言っているような霊界は存在すると思っています。地獄・天国と呼ばれるような世界も。天使や閻魔大王のようなものも。神も悪魔も。それらの詳細については諸説ありますが、大まかな感じでは、すべて存在すると。

眠りから覚めるとき、自分が肉体に戻っていく感覚がわかる事があります。肉体を着る、という感覚です。怪我や病気をしていると、その痛みや苦しみが、目覚めよりかすかに遅れてやってくる。眠る事は、死と非常に似ている。眠りたくても眠れない事がある。眠りは時として非常に甘美であり、眠りそのものを願う事さえある。

そしてまた、私はこんな奇妙な考えを持つことがあります。自分は既に死んでいるのではないか?何だか、自分は過去に自殺したような気がしてくるのです。今の自分は「お化け」である、という感覚。お化けとは自分の死が自覚できないものである、という事を聞いた事があります。自分はもしかして死んでいるのではないか・・・?

目をつぶって眠れずに寝床にいる時など、強烈に自己を意識します。過去の事を思い出して自己嫌悪に陥ったり、未来を考えて不安になったり絶望したり(ちなみにこれも布団に入って書いてます)。ところが、寝床を出て顔を洗ったり食事をしたり、歩いたり電車に乗ったりしているうちに、
自己よりも外界や他人に対する意識が大きくなっていき、寝床で悩んでいた事がちっぽけに思えて、むしろ自己嫌悪していた自分を嫌悪します。この状態が、一般に言う「精神的に健康な状態」です。

しかし、それは本当は自己を忘れているのに過ぎない。臭いものにフタをしただけに過ぎない。問題を先送りにしただけに過ぎない。ほとんどの人は、そのまま一生を過ごす。自己を忘れて肉体の欲望のおもむくままに生きる。自殺を願うのは、それができなくなった人です。肉体の欲望の喜びが、自己意識より小さくなってしまった人。そして、自己意識とは、罪悪感ではないでしょうか。

「キリスト教は自殺を禁じている」という言葉をよく聞きます。いろいろ宗派があるとかイエスはそんなこと言ってないとかいう意見もあるかもしれませんが、そういう事が言われるのも、自己意識が罪悪感と関連しているからだと思います。罪を意識したときに、それが許されないと考えると自殺する。許されると考えれば信仰する。罪は人間の法律違反の事でないのはもちろんですが、それも含まれます。狭義には罪は違法の事ですが、それを突き詰めていくと、自己に到達します。そして悩む。喜ばない。

なぜ自己に到達すると悩むのでしょうか?私はまず、こう考えました。「人間は生まれながら悪い存在である、だから自己を意識すると罪悪感にかられる。」しかし、そうだとすると、「なぜ罪を罪であると自覚できるのか?」という疑問がわく。次にこう考えました。「自己を意識する事が間違っている。自己を意識する事、それこそが原罪である」。アダムとエバは主に食べるなと命じられた善悪を知る木の実を食べた後、何をしたか?イチジクの葉を腰に巻いたのだ。まさに自意識ではないか。
そして私は自己を意識すまいと努めた。「客観的になれ」と言う言葉は、実は罪深いことで、主観的にならねばならない。主観的になって悪い存在は、存在自体が悪いのである。この考えはほとんど悟りに近いものがありました。自分だけで到達した考えでもないのですが。ですが、いずれの考えも間違っていたのは、今、再び強烈に自己を意識し絶望している事で明らかです。


以前に私は自殺がなぜいけないのか、自殺をしてはいけない理由をある場所にながながと書いたことがある。今それをここに載せようと思ったのだが途中から自分の半生を振り返っていて載せるのには不適当なので要旨だけを載せたい。『自殺は残された人がたまらなく悲しいからやめようね。』これだけである。もし、自分が死んでも悲しむ人などどこにもいない、という確信があるのなら、死んでもいいだろう。私は若きウェルテルの悩みでウェルテルが自殺肯定論を述べるところが大好きだ。

なんだかんだ言っても、自殺がどうして悪いかを答えられる人はいない。死んだらどうなるかが誰もわからないからだ。もし死んだら何もかも無になってしまうのなら、耐え難い苦しみを持っている人に死なせないのは残酷だろう。

丹波哲郎みたいに、人は霊界から修行のために現世に来ており自殺はその修行から逃げることだ、という考えも、誰も本当かどうかわからない。わからなくていいのだ。死んでしまえば何もかもチャラになるだろう。家族や知人は悲しむかもしれないが、生きていることで何もよいことをしていず、人に迷惑をかけることしかしない存在なら、死んでしまったほうがいい。困難を解決するのが一番いいけど、そう簡単に解決できることなら自殺なんか考えない。それから人が死ぬのは単に経済的に困ったとか社会的に失敗したとか言うことだけではない、感情的、心情的に傷つき痛みをかかえたときに死をもってしかそれを止めることができないようなことがあるのだ。


あるサイトによると、平成15年の自殺者は32109人。別のサイトによると、同年の交通事故死者数は7702人。自殺者が多いとは知っていたが、交通事故死よりもこれほど多いとは思わなかった。
クルマの免許をとるために教習所に通っていたときに、学科を担当していた教官が交通事故死について話してくれたのだが、毎年毎年、まるで交通事故で死ぬ人数が決められているかのように一定の人間が交通事故で死んでいくそうである。自殺もそれと同じようなものではないか。

最近、マンションの9階の部屋に引っ越した。今まで2階より高い部屋に住んだことはなく、高いところに住むのは嫌だと思っていたのだが、たまたま空いていて安い部屋が9階だったので、まあいっかと引っ越した。エレベータで上り下りするから、時間や距離的な不便というのはほとんどない。しかし、玄関のドアを開けて外へでるとき、帰ってくるとき、バルコニーに出て洗濯物を干すときなどに、なんだか吸い込まれそうな感覚をおぼえる。それは、飛び降りたくなると言ってもいいような、誘惑に近いものである。別に人生に絶望しているわけでも、生きる楽しみがなにもなくて死んでしまいたいわけでもない。もちろん、飛び降りたときのことを考え、地面にたたきつけられたときの苦痛を考えてぞっとするのだが、何かがわたしを誘惑する。部屋の中にいても、衝動的にドアか窓を開けて、飛び降りてしまうようなことがあっても不思議ではないと感じる。意外さで言えば、それ以上の意外な突拍子もないとんでもない行動をするのは日常茶飯事だからだ。9階から飛び降りることなんて、晩飯に1万円使う程度の敷居の高さだ。

そんなことを考えて思い出したのが、ある俳優の転落事故である。彼は本当に9階から飛び降りた。そしてなんと、フェンスにぶつかって一命をとりとめた。事件当時も驚いたことは驚いたのだが、あらためて当時の状況を調べてみたら、彼はただ飛び降りたのではなく、どうやら相当の勢いで前方にジャンプしたようである。マンションのバルコニーだからある程度の高さの手すりのようなものがあるはずだから、助走をつけて飛んだのではなく、水泳の飛び込みのように、手すりを思い切り蹴って飛んだのだろう。どうしてそんな事をしたのかはわからないが、彼は自殺をこころみたことは間違いない。たまたま助かっただけである。

親しい人が自殺したときに、「馬鹿野郎」とか「卑怯者」とか言ったり、見知らぬ人であれば「迷惑」「弱虫」などといったりする。それに拍車をかけたのは金八先生だろう。しかし、たとえそれが借金苦であろうと、薬物中毒の果てであろうと、良心の呵責であろうと、死をもって償うというのは、相当な覚悟がいることである。私は、それがどんなに卑怯な動機であろうと、死者にはせめて黙祷をささげるだろう。モクトウとは何か?祈りである。祈りとは何か?あなたは今まで、祈ったことがあるだろうか?受験の発表のとき?何か失敗をしたとき?病気になったとき?親が危篤になったとき?とにかく、わたしは死んだ人は責めない。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。