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タラントを土に埋める男


今職場にいる若い子に何か言うと、ブラックホールに吸い込まれたように
私の思惑がはずれてしまうことが続いている。

そのとき思い出したのが、聖書にあった、預かったお金を隠していたら怒られた、
とかいう話である。

マタイによる福音書にある話だが、
この話は初めて読んだときから今に至るまで、何が言いたいのかいまひとつわからない。

ブログなどで、「神からあたえられた才能を開花させることだ」
などという解説をしているのを読んだ。
「タラント」というのは通貨単位だが、英語のtalentの語源になったとか。

しかし、私はそんな意味でイエスがこのたとえをしたとは思えない。

そもそも、この話は「天国」とはどういうものかをたとえた話である。

聖書は、イエスの言葉は、
「みんな仲良く誠実に生きようね」などという安っぽい道徳ではないことは、
最初に読んだときからずっと感じていたことであるが、
それにしてもこのたとえは本当に「神が人に能力を与えてそれを各自が生かす」
などというみもふたもない話なのだろうか?


あえて、一般的に解釈されているのとは違う解釈をしてみる。

この話に出てくる「主人」と「僕」は、神と人間に対応するのではない。
天国での、人のありようを示しており、「主人」とは人間ひとりひとりのことである。

人間が、考えるとき、行動するとき、仕事でも趣味でも遊びでもなんでも、
エネルギーや情熱を注げば、それに応じた結果が現れる世界である、という意味だ。
また、その注ぐ対称は、均等に万遍なくあるものではなく、もっとも効果的なように、
差をつけて注ぐという意味である。

5タラントを預けたものは5タラントをもうけ、2タラントは2タラント、1タラントしか渡さなかったものは
そのままだった。
たとえば突然1億もらったら商売をするかもしれないが、10万円だったら貯金するかパーッと使ってしまうだろう。

そもそも最初に、「能力(ability)に応じて金(talent)を与えた」と書いてある(gideon bible)。
神様は誰にもわけへだてなく恵みを与えるのではなかったのか?
「雨は誰にでも降るが平等ではない。不平等な世界に降るからだ。」
という言葉を読んだことがあるが、
神様は不平等な世界に平等に恵むどころか、
恵まれたものにさらに与え、貧しいものからは持っているものをうばって豊かなものに与えまでするというのだ。

現実を見ればその通りだ、能力のあるものが仕事を与えられて豊かになり
さらに仕事を与えられて格差が広がっていく、それが現実だ、とは言えるだろうが、
だからといって、天国がそのようなものだというのがこの話の真意と言えるだろうか?
私にはそうは思えない。

先だっての定額給付金であるが、
ひとりひとりに分配したら1万とか2万円にすぎないが、
総額は2兆円だという。

2兆円あったらどんなビジネスができただろう・・・・・?

わたしは定額給付金など、何につかったかもわからない。
土に埋めるどころか、ドブに捨ててしまったようなものだ。
そんな人が多かったはずだ。

なんかつまらないカネの話になってしまった。

本当はこんなことを言いたいのではなかった。

結論はださない。
これからも考え続けていくひとつのテーマである。

そういうものを持つことも必要である。
何もかも是非を区別して片付けられるものではない。

わからないこと、逃れようのないものに時間をかけて付き合っていくことも必要である。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。