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2010年3月22日月曜日

ことだま


ブログでも、twitterでも、2ちゃんねるでも、いいことが書けると気分がよい。「気分や体調がよいといいことが書ける」というのは、誰にでも同意してもらえるだろうが、その逆に、「いい事を書くと、心身に好影響をあたえる」ということもある。イエスも、「口から入るものが人を汚すのではなく、口からでる言葉によって人は汚れる」と言っている。「悪口、恨み、呪いなどのネガティブな発言は同類を呼び寄せる」ということはよく言われるが、わたしが言いたいのはそういうことではない。暴言を吐けばそれに応じる同様の反応があるのは当然であるが、反応がなくても、暴言を吐いた時点で自分自身が汚れる、毒に犯されるような思いをすることがある。

言葉が単に自分の思考や感情の説明、描写であるというのは、言葉の威力をみくびっている。「社交辞令」とか「口先だけ」「言うは易し」などと言うように、「言葉」には皮相で表面的であるようなイメージがあるが、言葉というのはそんなものではなく、言うと同時にそれが自分にも相手にも、呪術のように影響を与える。だから、私は読書に慎重なのである。読書というのは、そういうはかりしれない威力をもった得体のしれないものを浴びる行為である。だから私は古典や名作と言われるようなものばかり読むのである。

そして、人は、多分、まったくオリジナルなユニークな、新しい「ことば」など、語ることはできない。私が言っていることも、ほとんど、誰かの発言の伝達である。パスである。パスというのは、難しい。パスは窮地に陥ったときに人に責任をなすりつけるようなことにもなるし、自分を犠牲にしてチャンスを作って人に花道を譲ることにもなる。