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2010年4月25日日曜日

メンタルステゴザウルス


部屋で足をぶつけたり、蛇口から出る熱い湯に触れたとき、あ、やったと思ってから痛みや熱さを感じるまで、時間がかかるようになった。酔っているのと、加齢のせいだろうか。先ほども昼食の支度をしているときに、もはや用無しとなったMDCDカセットプレイヤーに右足くるぶしをぶつけたが、痛みを感じたのはそこから1m離れた小さな台所に着いてからだった。そして痛みがおさまった刹那、自分の過去に経験した恥辱や屈辱がブワっとよみがえってきて、それを追い払うように「死ね!」と何度もつぶやいた。

台所やトイレに来ると、そういうことがよくある。そのときにつぶやくのは「死ね」だったり「死にたい」だったり「うるせえ」だったりする。「クソ野郎」「バカ野郎」のときもある。それは、屈辱を与えた相手に言うのではなく、自分に対して言っているのである。思い出している事は、もう数年も前のことばかりだ。当時は黙って、笑って見過ごしていたことである。それが、後になって甦ってきて、私を責め苛む。しかしもう遅い。「あの時のあの発言はどういうことだ?」と言うこともできない。すでに今では電話もしない関係だ。

台所の換気扇から、外の音が聞こえる。
なぜか、バイクの排気音がよく耳に入る。
音が高いからだろうか・・・。

死んだ父も、退職する間際の頃には、風呂場や便所で「クソッ」「この野郎」などと独り言を言っていた。母が何を怒っているのかと聞いたことがあって、父はやはり自分に対して怒っているのだ、と言っていたそうだ。

私ももし人に聞かれたら、自分に対して怒っている、と答えるだろう。実際、そうなのである。怒っているのは、そんな侮辱をうけるようなナメられた自分に対してである。そういうときに、相手に侮辱するなと怒るほど情けないことはない。そしてそれを後になって恨んだりするほど惨めなこともない。だから、そのような時に自分に対して鞭打つのが精一杯の対応である。

そして、すがれるたった一つの救いは、相手にはそのような思いをさせなかった、ということである。もしかしたら、自分も誰かに同じような思いをさせているかもしれない。相手を恨めないのは、それもある。