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ひとり床屋談義


2ヶ月ぶりくらいに床屋へ行った。普段は最近増えた、1000円とか1800円とかの安い床屋で適当にお任せで切っている。土曜の11時ごろ、一度行ったことのある1800円の床屋へ行ったら、二人待っている人がいたので、すぐに引き返した。もうひとつ安いところがあるのだが、そこは駅の近くでいつも混んでいるので無理だろうなと思いつつも見に行ったら案の定、5人くらい待っていた。仕方ないなと、4000円くらいの、昔ながらの床屋さんへ行くことにした。そこは一度行ったことがあるのだが、もう行きたくないと思っていた床屋だ。

客はひとりもいず、私が入ると座ってテレビを見ていた親子の理容師がびっくりしたように立ち上がって親の理容師が私の髪を切った。持っていたカバンや上着を待合用の椅子の上に置く。かけましょうかの一言もない。お父さんは、仕事は丁寧なのだが時間がかかる。普段行っている床屋の雑だが速い仕事に慣れていたので、イライラする。

私の後にもうひとり客が来た。常連のようだ。若旦那が担当する。1時間くらいして、ようやく頭を洗う。その後、当然のようにBRAVASを振りかけようとしたのであわてて断った。頭を洗った後、顔そりをした。これも久しぶりだ。最近は床屋では顔やヒゲを剃ることも断っているからだ。お父さんの手が震えている。怖い。ただ、震えているのは顔をおさえる左手のほうで、かみそりを持ったほうはかろうじて震えていない。70歳くらいかな?最後、ドライヤーで整髪する。これも丁寧だが遅い。私は髪の毛なんかずっと前から「無造作スタイル」なので無駄なことなのに・・・

私の後に来た客が先に帰った。髪を切られながら、こういう床屋も少なくなったなと思いつつ、この業界もそこそこのサービスで低価格が主流になっていくのだと感じた。

TV番組が音だけ聞こえる。恐竜に関係するイベントに関するもので、アナウンサーが説明するVTRがメインで、そこに若い女性の驚いたり笑ったりする声がかぶされ、合間にお笑い芸人たちがちょっとしたコメントを入れる。いかにもつまらなそうな番組である。最近よくきく、「テレビが終わりつつある」というのは、こういう番組のことを言うのだろう。テレビというものは、「お茶の間」という言葉があるように、家族で食事時などに見るものだった。番組の中身はそれほど真剣に吟味することはなく、「ヒマだからテレビでも見る」という程度のものだった。今は核家族化してさらに成人すると一人暮らしするのが当然のようになり、さらに家族で同居していてもテレビは個室で見るようになった。「テレビを見る」というイベントではなくなり、純粋に映像による情報や娯楽の媒体となった。そうなると、番組は「当たり障りのないもの」では満足できなくなってくる。私も一人暮らしになって、見る番組が変わった。同じ番組を見ても一人ではつまらないものがある。それはテレビがつまらなくなったというより、自分の生活が変わったのである。

そのテレビ番組でこんなことを言っていた。「恐竜が生きていた時代は1億8000万年、人間が誕生してまだ400万年しか経っていない」恐竜がそんなに長い間生きていたとは知らなかった。なるほど、もしかして人間は恐竜にも劣る存在なのかもしれない・・・逆に言うと、人間はこれからさらに1億年以上も行き続けるのか、一億年後の人間はどんな生活をしているのだろうか・・・などと考えかけたが、ただ、私はそういう、「地球の45億年の歴史に比べたら人生なんか・・・・」とか「宇宙のすべての星の数を考えるときっと知的生命体が存在する」などという考え方が嫌いだ。われわれの人生が80年だか100年だかであることは、それに比べてどんなに長い年月と比較しようが、何も変わらない。地球が45億年前にできていようが、50億年後に太陽が燃え尽きようが、1万年後に氷河期が来ようが、まったくどうでもいい話である。もっと言うと、自分が死んだ翌日に地球が爆発しても、いや、自分の人生が地球の爆発によって終わっても、交通事故で終わっても、病気で死んでも、どうでもいいのである。

・・・

床屋では私は話をしない。目をつぶって、こんなことを考えているのである。

ひとり床屋談義でした。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。