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2010年5月8日土曜日

花を咲かせるもの

「桜の樹の下には死体が埋まっている」という梶井基次郎の小説というか、エッセイというか、詩のような文章がある。高校生の頃読んで、ピンとこなかったのを覚えている。「美とは死体が腐敗するようなものだ」とかいう皮肉みたいなことなのかと思ったりもしたが。だが、それは特にヒネった言葉ではなく、そのままの真実ではないかとも思う。花が咲くためには桜の木は根から水だの養分だのを吸収する。土には、動物のフンとか、腐敗した落ち葉とか、小動物のまさに死骸が埋まっている。無数の生と死が桜の花を咲かせているというのは科学的にも正しいと言えるのではないだろうか。ただし、梶井基次郎が言いたかったのはもちろんそんなことではないだろう。食物連鎖などクソくらえだと思っていたはずだ。

またある人が、さらりとこんなことを言っていた。「人は死ぬと、花を咲かせる仕事をするのです」と。本当にさらりと、何かの話の流れのなかで言ったことである。もしかしたら言い間違いか、ウソかもしれない。だが、わたしは最近、咲きほこる桜や、ツツジや、青々と繁る葉をみたりすると、目に見えない死んだ人たちが、必死にそれを咲かせているというのがわかるような気がする。

人が死ぬとどうなるのか。「無になってしまう」という人は、黙っていて欲しい。それは本当かもしれないが、本当に無になるのだったら、「生まれ変わる」とか「星になる」とかいうことは、おばかさんの妄想、ファンタジーだと笑って受け流して欲しい。無になるのなら、われわれがなんと言おうと無なのだから、目くじら立てて怒らないで欲しい。しかし、無にならないのだったら、われわれは目くじら立てて怒る権利がある。私は怒らないが。

一番肝心なことは、この世、とくに自分の遺族や愛する人、尊敬する人、心配する人に対し、死者が何かをできるのかどうか、ということである。あなたが今日死んだとして、映画などにあるように半透明な一方通行の存在になったら、地上に生活しているあの人のところへ行って見たい、という人がいないだろうか?おそらく、死者が何か別のカタチで存在し続けさらにわれわれの世界となんらかの交流をおこなう場合には、言葉とかそれまでと同じような手段は使わない。

花というのは、植物が自分達を繁殖させるためだけのものであるには、美しすぎる。あれはあきらかに、人間を楽しませるために咲いている。これは、いつか明らかにされるであろう。そしてそれは、死んだ人が残された人に関わる手段としては、もっとも手軽で、かつ喜ばれることではないだろうか。われわれが墓参りで花を供えるのと同じような感覚で、死者がわれわれのために花を咲かせている、と考えるととてもしっくり来るのである。

もちろん、そういう自然というフレームワークを創った偉大な存在があるのが前提である。だが、そのフレームワークやAPIを利用して、美しい景色をインプリメントしているのは、死者達なのではないか?死ぬと言うのはそういうことではないか?