スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

7月, 2010の投稿を表示しています

コミュニタリアン(笑)

最近、コミュニタリアンという言葉をよく目にする。その講義が話題になったマイケル・サンデル氏がその代表だそうだ。日本語にすると「共同体主義」。それは個人の自由よりも共同体の価値を重んじる、というようなことで、その反対が「リバタリアン」だそうだ。極端な個人主義のことか。
この言葉に限ったことではないが、私はなんとか派とかなんとか主義とかなんとかイズムとかいうものを軽視している。そんな風に人を分類できるものでもないし、そんな主義を持つべきだとも思わない。自分を何々ストとか何主義とかいうことはない。日本人にはそういう人が多いだろう。
ある人は「日本にはリバタリアンがほとんどいない」と言っていたが、それは言い方が逆で、日本人には理解しがたい思想の持ち主が、日本人がほとんど常識としてあたり前のように考えていることを何かの主義であるかのように名づけたのが「コミュニタリアン」という名前なのである。
私はこの言葉の定義をきいて、あやうく「俺のことじゃん」と思いかけたが、そのように自分をなんとかタリアンに分類すること自体がすでに彼らの術中にはまっていて、危険な落とし穴である。
私は最近、日本人が持っていて捨ててしまったもの、捨てようとしているものがなんなのかを、肯定的に考えている。つまり、日本人は日本人らしくていいのではないか、ということである。
自虐史観とか、ガラパゴスとか、日本は自国の伝統や歴史や生活習慣をなぜか悪しき物だと考えてそれを捨てようとする傾向が強いように感じる。「日本はだめだ」一昔前までは「アメリカでは」「欧米では」と言っていたが、最近は「インドでは」「中国では」「シンガポールでは」「アフリカでは」などと言うのも聞くようになった。
「世界標準に遅れている」というあせりは、遣唐使を派遣していた頃からずっと、鎖国後だけでなく、ずっと持ち続けていたものだろう。
幕末から明治の日本はすばらしかったという史観は大嫌いだ。竜馬がゆくなんてのもヒマつぶしに見ているだけだ。司馬遼太郎の本もちょっと読みかけたことはあるがすぐにやめた。彼が昭和以降の日本をまったく評価していないのを話しているのを聞いて、よくいるアンチ日本主義者じゃないかと、ますます嫌いになった。
私は福沢諭吉も嫌いである。文明論の概略とフクオウ自伝を読んだが、彼も結局はなんとなく海外の思想を追いかけただけである。夏目漱…

酒が飲めなくなった?

酒を飲みたくならないのは好都合ではあるのだが、もしかして飲めない体になったのではという疑いが出てきた。コンビニや駅で、以前ガブガブと飲んでいたビールやチューハイの缶を見ると、それを飲んで自分の腎臓やら肝臓やら膵臓やらに染み渡っていくことを考えると、寒気さえするのである。これは、健康に気を使うというのとは違う。実際、やめたのは酒がうまくないからでもあった。
そして、体の不具合とまではいかないが、いまひとつピリっとしないという感じは常にあった。
最近、「スポーツ」から遠ざかっている。そしてそれにより心の平安を得られている。「スポーツばかりしているとバカになる」というのはあながちウソではない。まあ、危険な雑な言い方ではあるが、大雑把には正しい。悪魔の誘惑というか、健康のために体を動かすというのは、よくないんですよ。話せば長くなるけど。
あー、なんかだるい。背中がジンジンする。食べすぎかな。

寝よう。

無目的な行動が破壊をもたらす

このことを感じたのは、父がガンになって、ガンについて調べていたときである。
ガンというのは、遺伝子の機能の異常であるそうだ。
遺伝子というのは本来自分と同じ細胞を複製するためのものであるが、 がん細胞というのはその複製機能に障害がおきて、複製すべきでない細胞を複製してしまう。
がん細胞とはただ自身を増殖することだけが目的の細胞なのである。
そういうと人にたとえてワガママな非常識な存在のようだが、がん細胞に「悪意」はない。 「イッヒッヒ、このカラダをメチャクチャにしてやれ!」などという意志は持たない。
ただ、自分の増殖だけを目的とする、無意志の無表情の存在である。 ガンというのはそういうものである。
社会のガンというのも同じで、それは悪意をもつもの、自説を曲げない頑固者のことではなく、 なにも目的を持たず機械的に本能にまかせみずからを増殖させていく存在なのである。

松本人志論

日本の歴史上の漫才師あるいはお笑い芸人のなかでもっとも偉大な存在といってもいい男、松本人志。

そのおもしろさ、お笑い界はもちろん日本の社会に与えた影響は誰もが認めるであろう。
ピークを過ぎたという話も聞くが、彼はもう二度と衰えることのない境地にまで達した男の一人である。

誰もが「まっちゃん」とか「まっつん」とか「松本さん」と、親しみをこめて呼ぶときの
その表情にはなんとも言えない柔和な、人を落ち着かせるものがある。

しかし、一体彼の偉大さはなんなのかを説明することは難しい。「やっぱまっつんおもろいわ」「まっちゃん天才だわwww」と言うしかない。そして、彼の面白さを学者や評論家に分析させないこと、とにかく彼の話を聞いて笑っていられればいい、と思わせていることも、彼の偉大さの一つである。

しかしこれほどの境地に達してくると、彼の偉大さを説明してみたくなる。「松本人志の何がすごかったのか」ということを。

そして私は先ほど数学Aの教科書で排他事象などについて書かれているところを読んでいるときに、それがわかったのだ。

松本人志の偉大さ、彼がこれほどまでの支持を獲得した理由は、彼がまれにみる常識者であったことである。

彼が作ったもしくは流行らせたといわれている言葉がいくつかある。「逆ギレ」「空気読め」「スベる」「サブい」「ブルーになる」など。これらは皆、確固たる常識が存在していないと意味をもたないことばである。

その二人の関係と二人の行動から誰が怒るべきなのかを理解しているから、そうでない怒り方をしたときにそれを「逆ギレ」と言える。

「ブルーになる」という言葉は、松本以前にも使用されていたが、その意味はもっと曖昧で心情的なものであった。しかし松本の使い方はいままでよりももっと倫理的な意味が強い。そう、今挙げた言葉の意味には、倫理的なものが強く含まれているのである。

彼についてはその感覚とかセンスが賞賛されてきた。センスのある芸人、彼を理解するにはセンスが必要、などと。

しかし、彼がもっていたのはセンスではなく、倫理観、常識性だった。センスはセンスでも、コモンセンスであったのだ。

常識性は松本だけでなく、大衆に受け入れられた芸人達は多かれ少なかれ皆が持っていたものである。それがなければ笑いは生まれない。

テレビが登場してさらにそれがほとんど一人一台ずつ占有できるのに近い状態に…