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コミュニタリアン(笑)


最近、コミュニタリアンという言葉をよく目にする。その講義が話題になったマイケル・サンデル氏がその代表だそうだ。日本語にすると「共同体主義」。それは個人の自由よりも共同体の価値を重んじる、というようなことで、その反対が「リバタリアン」だそうだ。極端な個人主義のことか。

この言葉に限ったことではないが、私はなんとか派とかなんとか主義とかなんとかイズムとかいうものを軽視している。そんな風に人を分類できるものでもないし、そんな主義を持つべきだとも思わない。自分を何々ストとか何主義とかいうことはない。日本人にはそういう人が多いだろう。

ある人は「日本にはリバタリアンがほとんどいない」と言っていたが、それは言い方が逆で、日本人には理解しがたい思想の持ち主が、日本人がほとんど常識としてあたり前のように考えていることを何かの主義であるかのように名づけたのが「コミュニタリアン」という名前なのである。

私はこの言葉の定義をきいて、あやうく「俺のことじゃん」と思いかけたが、そのように自分をなんとかタリアンに分類すること自体がすでに彼らの術中にはまっていて、危険な落とし穴である。

私は最近、日本人が持っていて捨ててしまったもの、捨てようとしているものがなんなのかを、肯定的に考えている。つまり、日本人は日本人らしくていいのではないか、ということである。

自虐史観とか、ガラパゴスとか、日本は自国の伝統や歴史や生活習慣をなぜか悪しき物だと考えてそれを捨てようとする傾向が強いように感じる。「日本はだめだ」一昔前までは「アメリカでは」「欧米では」と言っていたが、最近は「インドでは」「中国では」「シンガポールでは」「アフリカでは」などと言うのも聞くようになった。

「世界標準に遅れている」というあせりは、遣唐使を派遣していた頃からずっと、鎖国後だけでなく、ずっと持ち続けていたものだろう。

幕末から明治の日本はすばらしかったという史観は大嫌いだ。竜馬がゆくなんてのもヒマつぶしに見ているだけだ。司馬遼太郎の本もちょっと読みかけたことはあるがすぐにやめた。彼が昭和以降の日本をまったく評価していないのを話しているのを聞いて、よくいるアンチ日本主義者じゃないかと、ますます嫌いになった。

私は福沢諭吉も嫌いである。文明論の概略とフクオウ自伝を読んだが、彼も結局はなんとなく海外の思想を追いかけただけである。夏目漱石もそうだ。みんな、不安をかかえながら、劣等感を捨て去ることができずに、やむをえず欧米の思想を学び、ついていったのだ。

そのような、「劣等感を克服しなきゃ」という姿勢は日本人に常にあるもののようで、そしてそれは間違った姿勢なのではないか、と私に思わせたのは、丸山真男の「日本の思想」であった。丸山真男は、日本に欧米のような思想史研究がないというところから話を始める。結論はどうだったのかは覚えていない。そして最近もう一度読み直そうとしてみて、最初の「なぜ日本に思想史研究がないのか」という疑問自体が、すでに欧米の、もっというとマルクスの思想なのだ、と気付いたのだ。

最初はあたかも中立な立場で日本と外国をならべて、「外国はこうなのに日本はこうだ、だらしない、情けない、けしからん」と言っているように装っているが、その「中立的な立場」自体が、「日本の思想」から逸脱しているのである。

福沢諭吉、夏目漱石、司馬遼太郎達も、きっと同じなのだ。彼らも、海外から輸入した思想、思想なんて大層なものじゃない、「思考法」、「テクニック」を使って日本を論じるから、どうしても否定的になるのだ。

わたしが物心ついたときには、オトナ達は天皇も、国家も、家も、家族も、キリスト教も、何もかもを否定していた。君が代日の丸にも何の権威もなかった。

わたしが物心ついたときには、すべてのものが地に堕ちていたのである。

だからわたしは、権威に反抗する気持ちというものがまったくない。反抗しようにも、権威が存在しないのだから。
親も、教師も、政治家も、自ら自分の権威を否定し、人は皆自由であり、何をしても許されるのであり死ねば消えうせてしまう、電車の運転手になろうと、プロ野球選手になろうと、サラリーマンになろうと、新聞配達をしようと、何をしてもかまわない、あなたの好きな事をしなさい、と教えるのだ。でもなぜか彼らは「それが本当に君ののぞむことならね」と意味ありげに笑うことを忘れない。

わたしにとってこの世で一番恐ろしいものは、そのオトナ達が見せる意味ありげな薄笑いだった。何の権威もなかったと言ったが、しいていえばその薄笑いが権威であった。天皇でもアメリカでもソ連でもない、共産党でも自民党でもない、CIAでもKGBでもない、日教組でも公明党でもグリーンピースでもなかった。

そのオトナの薄気味悪い笑いというのはなんなのか、今でもわからないが、積極的な価値を持たず、主張もせず、一部分を否定しては走り去るヒットアンドアウェーみたいな戦法の人間は、私に敵対する人々としてまわりにもたくさん存在している。

「コミュニタリアン」という分類も、彼らの使うものである。しかしそれが意味するものは、私にとっては水や空気と同じくらいあたり前の、誰に教わるでもなく心のなかにある常識のようなものである。

それをあたかも、コンビニに陳列されて、人々が今夜は何を食べようか、弁当にするかパンにするかカップラーメンにするか、お菓子でいいか、などと選択するものであるかのように分類することに、他の「哲学」とか「思想」などと同列に並べることに、わたしは怒りを覚えるのである。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。