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2010年7月23日金曜日

コミュニタリアン(笑)


最近、コミュニタリアンという言葉をよく目にする。その講義が話題になったマイケル・サンデル氏がその代表だそうだ。日本語にすると「共同体主義」。それは個人の自由よりも共同体の価値を重んじる、というようなことで、その反対が「リバタリアン」だそうだ。極端な個人主義のことか。

この言葉に限ったことではないが、私はなんとか派とかなんとか主義とかなんとかイズムとかいうものを軽視している。そんな風に人を分類できるものでもないし、そんな主義を持つべきだとも思わない。自分を何々ストとか何主義とかいうことはない。日本人にはそういう人が多いだろう。

ある人は「日本にはリバタリアンがほとんどいない」と言っていたが、それは言い方が逆で、日本人には理解しがたい思想の持ち主が、日本人がほとんど常識としてあたり前のように考えていることを何かの主義であるかのように名づけたのが「コミュニタリアン」という名前なのである。

私はこの言葉の定義をきいて、あやうく「俺のことじゃん」と思いかけたが、そのように自分をなんとかタリアンに分類すること自体がすでに彼らの術中にはまっていて、危険な落とし穴である。

私は最近、日本人が持っていて捨ててしまったもの、捨てようとしているものがなんなのかを、肯定的に考えている。つまり、日本人は日本人らしくていいのではないか、ということである。

自虐史観とか、ガラパゴスとか、日本は自国の伝統や歴史や生活習慣をなぜか悪しき物だと考えてそれを捨てようとする傾向が強いように感じる。「日本はだめだ」一昔前までは「アメリカでは」「欧米では」と言っていたが、最近は「インドでは」「中国では」「シンガポールでは」「アフリカでは」などと言うのも聞くようになった。

「世界標準に遅れている」というあせりは、遣唐使を派遣していた頃からずっと、鎖国後だけでなく、ずっと持ち続けていたものだろう。

幕末から明治の日本はすばらしかったという史観は大嫌いだ。竜馬がゆくなんてのもヒマつぶしに見ているだけだ。司馬遼太郎の本もちょっと読みかけたことはあるがすぐにやめた。彼が昭和以降の日本をまったく評価していないのを話しているのを聞いて、よくいるアンチ日本主義者じゃないかと、ますます嫌いになった。

私は福沢諭吉も嫌いである。文明論の概略とフクオウ自伝を読んだが、彼も結局はなんとなく海外の思想を追いかけただけである。夏目漱石もそうだ。みんな、不安をかかえながら、劣等感を捨て去ることができずに、やむをえず欧米の思想を学び、ついていったのだ。

そのような、「劣等感を克服しなきゃ」という姿勢は日本人に常にあるもののようで、そしてそれは間違った姿勢なのではないか、と私に思わせたのは、丸山真男の「日本の思想」であった。丸山真男は、日本に欧米のような思想史研究がないというところから話を始める。結論はどうだったのかは覚えていない。そして最近もう一度読み直そうとしてみて、最初の「なぜ日本に思想史研究がないのか」という疑問自体が、すでに欧米の、もっというとマルクスの思想なのだ、と気付いたのだ。

最初はあたかも中立な立場で日本と外国をならべて、「外国はこうなのに日本はこうだ、だらしない、情けない、けしからん」と言っているように装っているが、その「中立的な立場」自体が、「日本の思想」から逸脱しているのである。

福沢諭吉、夏目漱石、司馬遼太郎達も、きっと同じなのだ。彼らも、海外から輸入した思想、思想なんて大層なものじゃない、「思考法」、「テクニック」を使って日本を論じるから、どうしても否定的になるのだ。

わたしが物心ついたときには、オトナ達は天皇も、国家も、家も、家族も、キリスト教も、何もかもを否定していた。君が代日の丸にも何の権威もなかった。

わたしが物心ついたときには、すべてのものが地に堕ちていたのである。

だからわたしは、権威に反抗する気持ちというものがまったくない。反抗しようにも、権威が存在しないのだから。
親も、教師も、政治家も、自ら自分の権威を否定し、人は皆自由であり、何をしても許されるのであり死ねば消えうせてしまう、電車の運転手になろうと、プロ野球選手になろうと、サラリーマンになろうと、新聞配達をしようと、何をしてもかまわない、あなたの好きな事をしなさい、と教えるのだ。でもなぜか彼らは「それが本当に君ののぞむことならね」と意味ありげに笑うことを忘れない。

わたしにとってこの世で一番恐ろしいものは、そのオトナ達が見せる意味ありげな薄笑いだった。何の権威もなかったと言ったが、しいていえばその薄笑いが権威であった。天皇でもアメリカでもソ連でもない、共産党でも自民党でもない、CIAでもKGBでもない、日教組でも公明党でもグリーンピースでもなかった。

そのオトナの薄気味悪い笑いというのはなんなのか、今でもわからないが、積極的な価値を持たず、主張もせず、一部分を否定しては走り去るヒットアンドアウェーみたいな戦法の人間は、私に敵対する人々としてまわりにもたくさん存在している。

「コミュニタリアン」という分類も、彼らの使うものである。しかしそれが意味するものは、私にとっては水や空気と同じくらいあたり前の、誰に教わるでもなく心のなかにある常識のようなものである。

それをあたかも、コンビニに陳列されて、人々が今夜は何を食べようか、弁当にするかパンにするかカップラーメンにするか、お菓子でいいか、などと選択するものであるかのように分類することに、他の「哲学」とか「思想」などと同列に並べることに、わたしは怒りを覚えるのである。