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8月, 2010の投稿を表示しています

戦争の親玉

民族紛争とか、それを制圧するような軍事行動はあっても、 アメリカ、中国、ロシア、日本などの大国があい争うような戦争はもう起きない。
ミサイルを撃ち込めば即それに対するミサイルが飛んできて破滅するという「抑止力」のためではなく、「戦争をして得することなど何もない」とわかっているからだ。 しかし、「戦争が起きるかもしれない」と人々に思わせておくことが、自分の利益になるという立場の人たちがいる。
いまや軍事的な示威行動や核実験の意味はそれでしかない。
昔からそうだったのかもしれない。 『戦争が起きるかもしれない、それは嫌だ』 と人に思わせること、これが世界を動かす。あるいは安定させる。
沖縄の基地の問題も、「そういう問題がある」とニュースになるだけで十分なのである。 だから、候補地が決まらなかったり、決めても工事が進まなかったりするのである。
核武装についても、同様である。それを議論して、「問題発言だ」とニュースになるだけで十分なのである。
では、それが本当の戦争になるかどうかは何によるのだろうか? 第二次世界大戦のようなことになるのは何故だろうか?
以前にも書いたが、それは大国の大統領や総理大臣の一存によるのではない。 それを導くのは意志も感情も持たない「民意」である。
Bob Dylanの曲に Masters of war というのがあるが、 Masers of warは、民意である。
民意というのは、特定の誰かの意見ではない。 人々が利己的に、なんのポリシーにも信仰にもよらず動物のように行動した結果、 雲が湧き出るように現れるのが民意であり、それが戦争の親玉なのである。

・・・こんなことを考えながら朝生を見ていた。

お詫びする少女

昨夜東京駅から藤沢まで東海道線のグリーン車に乗った。空いていたので2階建てになっていない入り口のすぐ側の席に座って音楽を聴きながらオニギリを食べていたら後から乗ってきた女性客の声で音楽が聴こえなくなった。驚いて振り返ると二人の女性が興奮状態でのべつ幕なしに何かしゃべっている。まじまじと見つめる私のことなど気付くそぶりもない。私は席を立って、隣の車両の1階へ移動した。1階の乗客は2、3人だった。私は真ん中あたりの席に座って中断した食事を続けてまた音楽を聴いていた。電車が動き出し、私は音楽を聴いていた。ときどき、小さな男の子が何か言うのが聞こえる。気にならないこともなかったが時節柄しょうがないかなと我慢していると、しばらくすると男の子が奇声をあげはじめた。イヤホンを外して車内を見回すと男の子は席の上にたって窓から外をながめワーキャー叫んでいる。姿は見えないが男女の大人が「シーっ」「静かにしようね」などと言っているのが聞こえるが男の子の奇声はなかなかやまない。やがてその奇声に応じるかのように、後ろのほうから女の子が大きな声でしゃべりだすのが聞こえてきた。やがて男の子の奇声はやんだが、少女達の興奮はおさまらず、歌まで歌いだした。いくら夏休みだろうがお盆だろうが車内で歌を歌うのはいかがなものかと私はイライラし始めたが、周囲の乗客は特に苛立つ様子もない。だが私がもぞもぞ動いたり頭を手でかいたりするのが見えたのだろうか、後ろからお母さんが低い声で「静かにしなさい」と言うのが聞こえたが少女はなかなか静かにならない。次の停車駅が藤沢であるという表示が付くと、そのお母さんが「もうすぐ降りるわよ」と言ってしばらくしたら、歌っていた女の子が大声で泣き始めた。わたしはその泣き声になんのためらいもはじらいもなく自分の不快を全面に押し出していることにある種の感動すら覚えてイライラを通り越して軽く噴出し、足を組み替えた。そのとき、私の足が前の席の下部の金属部分にあたり、「パキッ!!」というようなかなり大きな音がした。そのつもりは全くなかったが『うるせえな』の意思表示とうけとられても仕方のないタイミングだった。電車が速度を落とすと、通路を1人の女の子が通り過ぎた。その後に続いて歩いてきたもう1人の女の子が通り過ぎるときに私にむかって神妙な顔をして「うるさくてすみませんでした」と言った。わたしが不意…

お詫びする少女

昨夜東京駅から藤沢まで東海道線のグリーン車に乗った。空いていたので2階建てになっていない入り口のすぐ側の席に座って音楽を聴きながらオニギリを食べていたら後から乗ってきた女性客の声で音楽が聴こえなくなった。驚いて振り返ると二人の女性が興奮状態でのべつ幕なしに何かしゃべっている。まじまじと見つめる私のことなど気付くそぶりもない。私は席を立って、隣の車両の1階へ移動した。1階の乗客は2、3人だった。私は真ん中あたりの席に座って中断した食事を続けてまた音楽を聴いていた。電車が動き出し、私は音楽を聴いていた。ときどき、小さな男の子が何か言うのが聞こえる。気にならないこともなかったが時節柄しょうがないかなと我慢していると、しばらくすると男の子が奇声をあげはじめた。イヤホンを外して車内を見回すと男の子は席の上にたって窓から外をながめワーキャー叫んでいる。姿は見えないが男女の大人が「シーっ」「静かにしようね」などと言っているのが聞こえるが男の子の奇声はなかなかやまない。やがてその奇声に応じるかのように、後ろのほうから女の子が大きな声でしゃべりだすのが聞こえてきた。やがて男の子の奇声はやんだが、少女達の興奮はおさまらず、歌まで歌いだした。いくら夏休みだろうがお盆だろうが車内で歌を歌うのはいかがなものかと私はイライラし始めたが、周囲の乗客は特に苛立つ様子もない。だが私がもぞもぞ動いたり頭を手でかいたりするのが見えたのだろうか、後ろからお母さんが低い声で「静かにしなさい」と言うのが聞こえたが少女はなかなか静かにならない。次の停車駅が藤沢であるという表示が付くと、そのお母さんが「もうすぐ降りるわよ」と言ってしばらくしたら、歌っていた女の子が大声で泣き始めた。わたしはその泣き声になんのためらいもはじらいもなく自分の不快を全面に押し出していることにある種の感動すら覚えてイライラを通り越して軽く噴出し、足を組み替えた。そのとき、私の足が前の席の下部の金属部分にあたり、「パキッ!!」というようなかなり大きな音がした。そのつもりは全くなかったが『うるせえな』の意思表示とうけとられても仕方のないタイミングだった。電車が速度を落とすと、通路を1人の女の子が通り過ぎた。その後に続いて歩いてきたもう1人の女の子が通り過ぎるときに私にむかって神妙な顔をして「うるさくてすみませんでした」と言った。わたしが不…

セミはなぜ鳴くのか

やることがないのに職場にいなければならないほど嫌なことはない。
やることをやったら帰りたい。やることがたくさんあって時間がなければ残業することはいとわない。 でも、やることがないときに拘束されるのは御免だ。
「人生もやることやったら終りになんねーかな」と独り言を言って、でも『仕事だってそういうわけにはいかないしな・・・』と、人生も仕事も、すべきことがあろうとなかろうと拘束されるものかなと思う。
人生はともかく仕事については本来すべきことがないのに職場にいるのは無駄なことであり、社員を会社にこさせるのは硬直した日本の組織ゆえの馬鹿げたことであるとずっと考えていたが、もしかしてそれが仕事の本質なのではないかと思った。
やることなど無限にある、やることがないなんて怠慢だ、人生も仕事も限られた時間で全力の仕事をなすのが人間の勤めだと、いう意見もあるだろう。
しかし、私は知っているのだ。今までに生きた人、今生きている人、そしてこれから生まれて生きて死んでいく人が、そんな気持ちで生きていないということを。

昼休み外に出てセミの声を聴きながら歩いた。心なしかセミの声にも疲れが見え始めたように感じる。ジジ・・・ジジ・・・と、死に掛けたような声が聞こえる。しかし、やはり無数のセミがそこらじゅうで鳴いている。セミはメスを求めて鳴くというのは本当だろうか?
セミは地中で何年か過ごしたあと地上に出てきて馬鹿みたいに鳴き散らしてあっという間に死んでいく。そんなセミにとって、鳴くことは本当に求愛にすぎないのだろうか?わたしは「セミは求愛のために鳴く」という考えがとても虚無的なつまらないものに思えてならない。
セミにとって鳴くことは人生のすべてといってもいい。セミが鳴くところをすぐ側で見ると、大変なものだ。かなりの大音量で、全身を楽器のようにして鳴く。本当に求愛だけのためにそんなに必死になれるのだろうか?
そもそも、これはセミに限らず、犬でも猫でも魚でも、牛でも馬でも人間でも、生まれてきて子孫を残して種を存続し増やそうなどと、本能であるにしろ、目的としているのかということに、私は非常に懐疑的である。
「それは考えるも何も、増やそうとするのが生物の本能だ」というのは真実かもしれないが、 だからといって、「セミが鳴くのは子孫を増やそうとする本能によるのだ」と言うこともできない。
セミが鳴くのは、…

登山論

私は去年、丹沢で何度か登山をした。最近は中高年を中心に登山がブームだという。私も去年何度か丹沢へ行って、登山客の多さに驚いた。ブームにともなって事故も増えている。登山で事故があるたびによく言われるのが「軽装だった」ということである。「山をなめてはいけない」と。

それはもちろんそうなのだが、私は、登山についてひとこと言いたい。登山は、どんなに重装備をしようが、訓練を積んで万全を期そうが、登山者の趣味なのである、と。何かを山に建設するなどの場合は趣味ではないが、そうだとしても、それは人間が自分達の生活範囲を広げる行為にすぎない。それが自分のためでなく仕事であっても、対自然ということを考えたら、人間の利己的な行為である。

そして、登山は危険な行為でもある。困難で危険だから、無事に登頂し下山したときに喜びがある。丹沢はそんなに険しくも高くもないが、それでもここで足を滑らせたら、ここであの石が崩れてきたら、この道が崩落したら・・・・とぞっとすることは何度もあった。

さらに、登山は多少なりとも自然を破壊する。樹木の立ち枯れ、鹿やヒルの増えすぎなど、丹沢にも環境問題があるが登山者の増加は間違いなくその原因のひとつである。私は登山をしながら、自分は山に登ってさえもいろいろな「迷惑」がかかるのだということを思い知った。人間が生きていくには、殺生もするし、社会にも迷惑をかけることがあるだろう。電気を使ったり、自動車を使うことで自然破壊の一端も担っている。

登山は健康で自然に親しむ行為だと思いきや、そこでもまだ迷惑がかかることは避けられない。わたしはすがすがしさや達成感を感じながらも、どうしても心の底から登山ってすばらしいな、と思うことはできなかった。

沖縄の海へ行ったときも同様のことを感じた。人間が趣味でするダイビングやシュノーケリング、海水浴によって珊瑚が痛み、死滅している。人間が海に入ることで自然が破壊される。それも、生きていくために仕方なくではなくて、趣味のために、酔狂のために、それが起こっているのだ。

わたしが「アウトドア」というものをあまり好きでなかったのにはそういう理由もあった。それは、自分が参加していないときには実感がなかったが、参加してみると、山に登り海に潜ってみると、よく実感した。

登山や海水浴をやめろとは言わないが、それが自分達の道楽であり、道楽により自分を危険…