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セミはなぜ鳴くのか

やることがないのに職場にいなければならないほど嫌なことはない。

やることをやったら帰りたい。やることがたくさんあって時間がなければ残業することはいとわない。
でも、やることがないときに拘束されるのは御免だ。

「人生もやることやったら終りになんねーかな」と独り言を言って、でも『仕事だってそういうわけにはいかないしな・・・』と、人生も仕事も、すべきことがあろうとなかろうと拘束されるものかなと思う。

人生はともかく仕事については本来すべきことがないのに職場にいるのは無駄なことであり、社員を会社にこさせるのは硬直した日本の組織ゆえの馬鹿げたことであるとずっと考えていたが、もしかしてそれが仕事の本質なのではないかと思った。

やることなど無限にある、やることがないなんて怠慢だ、人生も仕事も限られた時間で全力の仕事をなすのが人間の勤めだと、いう意見もあるだろう。

しかし、私は知っているのだ。今までに生きた人、今生きている人、そしてこれから生まれて生きて死んでいく人が、そんな気持ちで生きていないということを。


昼休み外に出てセミの声を聴きながら歩いた。心なしかセミの声にも疲れが見え始めたように感じる。ジジ・・・ジジ・・・と、死に掛けたような声が聞こえる。しかし、やはり無数のセミがそこらじゅうで鳴いている。セミはメスを求めて鳴くというのは本当だろうか?

セミは地中で何年か過ごしたあと地上に出てきて馬鹿みたいに鳴き散らしてあっという間に死んでいく。そんなセミにとって、鳴くことは本当に求愛にすぎないのだろうか?わたしは「セミは求愛のために鳴く」という考えがとても虚無的なつまらないものに思えてならない。

セミにとって鳴くことは人生のすべてといってもいい。セミが鳴くところをすぐ側で見ると、大変なものだ。かなりの大音量で、全身を楽器のようにして鳴く。本当に求愛だけのためにそんなに必死になれるのだろうか?

そもそも、これはセミに限らず、犬でも猫でも魚でも、牛でも馬でも人間でも、生まれてきて子孫を残して種を存続し増やそうなどと、本能であるにしろ、目的としているのかということに、私は非常に懐疑的である。

「それは考えるも何も、増やそうとするのが生物の本能だ」というのは真実かもしれないが、
だからといって、「セミが鳴くのは子孫を増やそうとする本能によるのだ」と言うこともできない。

セミが鳴くのは、人生そのものなのだ。あれは、人生を謳歌しているのだ。
うわー世界はこんなに暑くてまぶしいのかうわー空青ぇええええええ 夕焼け赤ぇぇええええ 木陰涼しいぃいいいいいいいいい 生きるってすげえええええええええ ジイイイイイイイイイイイイイイイイイ ミイイイイイイイイイイイイイイン シャワシャワシャワ オーシンツクツクツク カナカナカナ !!!!!!!!!!

という感じで鳴いているのだ。メスを探して子を残すのは、ついでのようなものだ。
自分の人生を謳歌するので精一杯だ。誰が自分が死んだ後のことなど考えるだろうか?
みんなだってそうでしょう?

300年後に隕石が衝突しようが、50億年後に太陽が燃え尽きようとどうでもいいと思うでしょう?
それなら、それがあなたの死んだ10秒後に起きたって、どうでもいいはずだ。


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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。