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ガキの遣い

私は今年で42歳。私が社会人になったのは、平成2年。最初は契約社員で、1年たった平成3年2月1日に正社員になった。
「3,2,1」なのでよく覚えている。つまりちょうど20年たったわけである。

今いっしょに仕事をしている若者について、悩んでいるというか悩まされているというか、とにかく困っている。
年齢は25かな、社会人になって3年目か4年目かの、女性である。彼女が、まったく自分の期待するように仕事をしてくれないのだ。

彼女は同じ会社の社員ではないので、私は上司でも先輩でもない。しかし、同じ職場で同じチームで仕事をするのだから、どうしても年長で経験もあるわたしが指導をするような立場になる。彼女は誰のいうことでも、私を含めて、ハイハイと素直にきくのだが、まったく応用がきかないというか、仕事の目的、その結果の意味などを全然考えず、「ガキの遣い」のような仕事の仕方しかできない。

私は100回くらい『言われたことだけやってないで自分で考えて行動しろ』といいかけたのだが(もしかしたら何度か言ってしまっているかもしれない)、それだけは言ったら負けだと思っている。
私が彼女と同じ年のころ、入社したてから数年経つまで、同じようなことを言われたのだがそのたびに『自分がやりたいことやって稼げるなら最初から会社員なんかならないで一人で仕事してるよ、俺は組織の一員なんだしあんたらはその管理職で高い給料もらってるんだから若手に指示するのが仕事だろ』と思っていた。それは正しいと今でも思っている。
また、やはり自分が若い頃、上司や先輩に質問やアドバイスをもとめると「・・・・じゃない?」「・・・・かもね」「・・・してみようか」などと言われて、『もっとはっきりこうしろといって欲しい』と思ったことがよくあった。
そういう言い方をするのは、責任回避というよりも、若手が自分で考えて自分で責任を持って仕事をして欲しいという気持ちからでる言い方なのだとういことは、つい最近わかってきたことだ。

多分、私はそういう気持ちをたくさん味わってきたために、断定的にあーせいこーせいと言いがちなところがある。
仕事というのは客にサービスして対価を得るためにするのであって若手を育てるのはその目的のためでしかなく、育てること自体が目的ではないから、仕事が滞るようなら若手のためにならなくても答えを教えて有無を言わさずにやらせる、というような人の使い方をする。

その結果、今悩まされているような若手を作ってしまったということがあるのだろう。

しかし、自分にも責任の一端はあるとはいえ、使い物にならない働き手であることは明白である。そこでわたしは、少なくとも彼女が、自分は今のままではいけないのだと気づいてもらえるように、とても厳しく、冷たい扱いをするようにした。

「人はほめられて伸びる」などと言うが、それは本気でほめる場合だけだ。人を育てるためにほめるような人がいる。もしくは、自分が嫌われたくないがために、相手を思ってではなく、自分のために相手をほめる人がいる。というか、そんなひとばかりだ。そんな動機でほめても人は伸びない。つけあがるだけだ。彼女はそういうインチキなほめられかたをされ続けて育ってきたことがうかがえる。日常的なことが何もできない。ちょっとした片づけとか、食事の所作とかを見ていても、『この子は家に召使でも雇ってなんでもやらせているのか?』と思うことがしばしばある。

最近はもう、彼女は今の仕事に向かないどころか、社会人としてやっていくのも無理なんじゃないかと思っている。主婦もつとまらない。実家に帰って家事手伝いでもしたほうがいいのではないかと。このままでは彼女にとっても、彼女がいる職場の人にとっても、よくない。


だが、その冷遇作戦はまったく効果をあげない。彼女は言えば言うほど、冷たく扱えば扱うほどいっそう萎縮していわれたことしかやらないどころか、言われたことすらまともにできなくなる。彼女は自分で考えたり、何かを改善したり、克服したりすることが嫌いなようだ。ただ淡々と、何かを受け取ってシールを貼って次の人に渡すようなことを、延々と続けていきたいだけのようだ。まあ、あんな会社に就職する人というのはそうなんだろうな。

ちなみに私は正社員時代は5年ほどで終えて、その後は契約形態をいろいろと変えて今は「自営業」である。
週休二日で平日の昼間に働き、決まった机に座って仕事をする見た目はまったくのサラリーマンであるが。
こうなったのは、『自分で考えて仕事をしろ』といろんな人に言われたのを、自分なりに実現した結果である。
サラリーマンでいる限りは、自分の考えや責任で仕事をすることはできない。せいぜい、そのフリをするのが精一杯で、ほとんどのサラリーマンはそうしてストレスをためつつ安定した生活を送ることを選択している。

しかし私はストレス耐性が低いので、そんな生き方はできない。さいわい、無趣味で衣食住などにたいする欲もひじょうに淡白なので、裕福な生活を犠牲にしてストレスのない生き方を選択したのである。ボーナスも退職金もない。傷病手当もない。住宅手当もない。転勤費用は自腹。

確定申告書かなくちゃ・・・

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。