同性愛

先ほど「男色が罪だ」とさらっと書いてしまったが、そのことに怒りを覚える人がいるかもしれないので、同性愛についての私の考えを述べよう。

同性愛者がよく自分達のことを差別するなというが、彼ら(この言葉に深い意味はない。単なる三人称複数、theyのことである)は病気なのだろうか?「性同一性障害」とかいう病名があるらしいが、もしそれが病気なら、治療しなければならない。
そうではなくて、病気ではなく、同性を肉体的に愛するのも自然なことだというのだろうか?そうであれば「性同一性障害」などと病気呼ばわりすることにこそ、怒るべきではないのか?

私は同性愛には3種類くらいあると考えている。
ひとつは、病気。遺伝子のキズだかホルモンの異常だかわからないが、そういう原因で本来の性とは違う性質が身体にあらわれる。しかしこれは非常にまれで、何万人に一人というくらい。

もうひとつは、退行あるいは逃避。異性に接することに恐怖を覚えて、同性としか接することのできない人々。これはけっこう多い。

そして最後。わたしはほとんどの同性愛者はこれだとみなしているのだが、反逆。
自然とか秩序とか社会とか親(多分これがもっとも大きい)に対する反逆。からかい、嘲笑。
自傷行為に近い。復讐といってもいい。本人は意識していなくても、ほとんど無意識になっていても、
それはその人の意志または感情による。

「自然に無意識に」人を殺したくなることがないだろうか?
そのときに「これは自然な感情だから許されるべきだ」と言えるだろうか?

ただし、同性愛は悪徳ではあっても人間の持つさまざまな悪徳のひとつに過ぎない。
私も人に言えないような悪徳をたくさん抱えて死にたくなるくらいだ。
だから同性愛者に生きる資格はないなどというつもりはない。
ソクラテスを尊敬しているくらいだから。三島由紀夫も好きだ。
その程度である。

ソクラテス

私が尊敬する「哲学者」は、ソクラテス、イマヌエル・カント、フランシス・ベーコン、キェルケゴールである。
彼らに共通するのは単なる思弁家ではなく、哲学者というよりも倫理家であることである。

このなかでソクラテスはちょっと毛色が違う。彼はこの4人のなかでももっとも倫理にこだわった人であった。だが、彼が他の3人と決定的に違うのは、キリスト以前の人であるということである。だから彼は、「罪」という概念を知らないのである。

彼はさかんに「善や徳というものが教えられうるか」ということを考えた。
そして安易に結論は出さなかったが、ほとんど「不可能である」と言っているに等しかった。
善は教えられないが、生まれつきそなわっているものでもない。
教えられうるならどうして不肖の息子が存在するのか。生まれつきそなわっていないのが事実であることはこの世の悪人達の所業を見れば、そして自分自身を見つめてみたときに明らかである。

そしてその問いにはっきりと答えを出したのがイエスである。
徳は教えられない。人間はうまれついての悪者で、罪深き存在である。ゆえに、救いが必要である。

「罪」と「救い」という考え。
これがソクラテスにはたどりつけなかったものであり、カント達は子供の頃から教えられてきたものである。
こんな考えが、地上に偶然湧いたような存在にどうして思いつくだろう?

地上から到達できる最高の境地にたどりついたのがソクラテスだった。
彼の言う「無知」というのはほとんど「罪」と同じものに迫っていた。
だが、それはあくまでも無知であり、「知らないからできない」のであり、「悪いとわかっていながら悪を為してしまう」ことではなかった。

人が悪を為すのは「罪」のゆであるとなると、人はその責任を負う。
それが「無知」の故であれば、責められないだろう。せいぜいが、「知ろうと努力することを怠った」ことを責められるくらいだ。

イエスが言う「罪」というのはそんな消極的な欠点ではない。もっと積極的な、恥ずべき、いまわしい、のろわしいものである。

ソクラテスは男色家だったのだろうか?それも少年を対象とした。
そうとしか思えないような発言がよく出てくる。
これぞ、罪。身をもって現している。

原発に賛成するか反対するかの分かれ目

どういう人が原発に反対し、どういう人が賛成するのか。以下のような傾向がある。

<賛成派>
・社会的に成功している。
・東京に住んでいる。
・独身か、結婚していても子供がいないかすでに成人している。
・田舎がない。

<反対派>
・社会的に不遇であるか強い不満を抱えている。
・幼い子供がいる親である。
・思春期
・田舎がある。もしくは在日外国人。


つまり、賛否を決定するのは原発自体が安全だとか効率がよいとかということではなく、その人の生活形態によるのである。日本がどうなっても帰る国のある人、一時的に日本に住んでいるような人は、万が一の危険があってもそれを排除するように求め、ダメなら帰るところへ帰る。

このあることについて賛成するかどうかがそのこと自体が正しいかどうかによるものではないというのは、原発に限ったことではなくて、あらゆる主義とか党派というものについて言えることである。

iPhoneのガラスが割れた

仕事が終わって、酒を飲んで軽く酔ってiPhoneで音楽を聴きながら歩いていた。
使っているイヤホンのコードが硬くて少しこんがらがっていたので、iPhoneを胸ポケットから出して、
イヤホンでつるすようにしてコードをまっすぐにしようとした。

まっすぐになったのでコードを引いて持ち上げようとしたらプラグが抜けて、
iPhoneが落ちた。落としたのは初めてではなかったので大丈夫だろうと思ったが、
ディスプレイを下にして落ちたのでキズついたかなと拾い上げると、
ガラスに痛々しいヒビが入っていた。

悪夢でも見ているのかと思った。
おおげさに聞こえるかもしれないがそれくらいショックだった。
幸い動作には問題がなかった。

購入して1年はすぎているので保証は切れている。
WEBでしらべるとソフトバンクショップでは数万円かかるという。
これを機に4に機種変更しようかとも思ったがローンの残金がまだけっこうある。

さらにWEBで調べると修理をする業者がたくさんいることがわかった。
多くは宅配便などを利用して受け付けていたが、そんなことをしたら最低でも3日はかかってしまう。
3日もiPhoneなしで過ごすことなど食事を断つのと同じくらいつらいことだ。

そこで持込できる業者を探してたずねた。
小さなビルの狭い一室で、受付にいた若い男性はヒビの入ったiPhoneを見ても顔色ひとつかえずに
「では交換しますので」と言ってiPhoneを持って奥へ行った。
私は誓約書のようなものに名前などを書いて、座って待っていた。
エアダスターを吹き付ける音、テープを切って貼っているような音が聞こえた。
そして10分くらいして先ほどの男性が私のiPhoneを持って戻ってきて「動作確認してください」と言う。
私はechofonを起動した。思わず「すばらしい」と声が出た。

代金は9000円だった。
ちょっと高いかなと思ったがショップよりは全然安い。

治ったiPhoneを手にある場所を歩いていると、4000円くらいで対応している店の看板を見た。

まあ、たかがガラス一枚交換するだけだもんな。

くしゃみの後の咳

わたしはときどき、くしゃみをした後に咳き込むことがある。
あまり体調のよくない、前日に飲みすぎたときなどによくなる。

これは、くしゃみをするとタンがでかかるのだが出し切れずにヘンなところにとどまり、
それを出そうとして起きているようだ。

これがとてもつらい。咳払いをしたり、水を飲んだり、うがいをしたりするがどれも即効性はなく、
しばらく待つしかない。

以前は、くしゃみをするとタンが口から飛び出して壁などに張り付いたものだったが。
もっと前は、そもそもタンなど出なかった。

ダイアナの死は陰謀ではない

今さらだが・・・

陰謀だとしたら、ドライバーに自爆テロをさせたようなものである。
誰がそんな依頼を受け入れるだろうか?

youtubeでコンピューターや模型を使って事故を再現したり、
ドライバーとおなじくらいの体格の男に酒を飲ませたりして検証しているのを見たが、
なんてムダなことをするんだろう。

私が陰謀でないと断言するのは、ドライバーがそんな仕事を引き受けることがありえない、
この一点につきる。

柱に衝突する直前に白い車に接触したそうだが、そんな微妙なことが意図的にできるはずもない。
また、その車に衝突させるつもりだったとしたら、今度はその白い車の運転手に動機がない。

陰謀説なんか、全部酔っ払いのたわごとである。

泡沫候補

先日東京都知事選の政見放送を見た。
どこの誰だかわからない人間が、普段では絶対放送できないような、
偏見と独断に満ちた支離滅裂な話をしていた。

選挙にはときどきおかしな事を言う人が出てくるのは昔からだったが、
私は今回の都知事選にやけにそういう人が多いなと感じた。

そして、彼らの目的はなんだろうかと考えた。
まず、本気で当選しようと思っていないのは間違いない。
売名行為といっても、名を売ってどうなるものでもないような人たちもいる。

そして思った。
彼らは誰かにカネをもらって、テキトーに投票する人たち(いわゆる浮動票)
のおもしろ半分あるいは既存の体制に対する不満の受け皿をやらされているのではないだろうか?

彼らがいなかったら、そういう浮動票がただ有名なだけの候補に集まってしまいかねないからだ。

硬い文章

最近、自分の文章の柔らかさが気になる。
あるサイトの文体診断というのをやってみて、それを改めて感じた。
要は漢字が少ないのである。

いろんなブログと一緒に自分のブログを読んだり、twitterで自分の発言をながめていると、
自分の文章が非常にやわらかく、極端に言うと子供のようなのがたまに恥ずかしくなる。

語彙が足りないのかな。

電気代

私の部屋の23年4月分(3/7~4/6)の電気使用量は104kWhであった。電気代は2504円。

前月は217kWh(4772円)だったから半分以下だ。去年の4月分は211kWhだったからやはり半分である。
3/11以降、エアコンは一度もつけていない。計画停電が何度かあり、停電のない日も外出時にはブレーカーを落とすなど、
節電というか電気の使用を極力排除した。
「電気なしでどれだけやっていけるか」というゲームをしていたようなものだ。

そして私はいかに今まで自分が、自分以外も、電気に依存しておりさらにくだらないことに電気を使っているものだと気づいた。
ほとんど何も入っていない冷蔵庫、日が出ているのにカーテンをしめて電灯をつけたりしている。

しかしパソコンと携帯(iPhone)だけは困る。こればっかりはどうにもならない。捨てるわけにはいかない。

私は原発どうこうの前に、「電気」というもの自体への依存をどうにかできないかと考えている。

あいさつしても友達は増えない

「あいさつするたびともだちふえるね」

これは、全くの誤解である。
挨拶というものは友達を増やすものではない。友達であることを表明するのでも、友達になろうという呼びかけでもない。
むしろ逆で、挨拶というものは「私とあなたは他人であるからむやみやたらに近づくな」という合図なのである。

告知

最近はガンを告知するケースが増えているようだ。医療が発達してガンでも早期に治療すれば高確率で治癒するようになったからだろう。私の父もガンになった。腫瘍があることはわかったが、それが悪性つまりガンであるかどうかは手術をしてみないとわからないが、悪性である可能性が高い、というような言い方をされていた。父も、我々も、もちろんショックではあったが冷静に受け止めていた。果たして開腹してみるとそれはガンであり、しかもかなり進行していた。

そのことは術後にまず家族に、そして本人にも意識が戻ってから告げられた。当然、さらにショックではあっただろうが、それでもまだ事実を受け止めて、前向きに闘病生活を送り、退院することができた。自宅に戻って父はガンについての本を読み漁り、食生活も一変した。胃の一部も切除して食欲は衰えたはずであったが、父はご飯をかきこむように食べていた。とてもまずそうだった。だが手術予後は良好だったようで、かなりやせはしたがほとんど普通に生活できるようになった。

そして最初の手術から1年たったときにガンが再発した。そのときも、前回と同じように手術前はあいまいに告げられたのだが、術後にもう手の施しようがなかったというようなこと、そして余命がいくばくもないことを告げられた。その後は我々も父になんと言っていいかわからなかった。そして、今まではすべてを本人に告げてきたのだが、余命については告げない事にした。すでに、父は認知症を発症して、支離滅裂なことを言ったり意識が混濁したりしていた。私が言いたいのは、いくら医学が発達しようが、あくまでも治癒の可能性が高いというだけであり、最新の医学をもってしても手の施しようのない事態があり、その場合にもすべてを告げるのが果たして本人のためだと言い切れるだろうか?ということだ。

なんでこんなことを書いたかというと、先ほどある人が今回の原発の事故について、ガンの告知をたとえに、「万が一の危険を知らせるべきだ」という話をしているのを聞いたからだ。それは、まだ安全だと思っているからこそ言えることだ。そして、自分はあくまでも犠牲者であり、被害者であるという意識を持っているから言えることだ。もし、自分が当事者であり、避難させたり、事故に対してどんな対処をするかを決定し指示する立場にいたら、なんでもかんでも最悪の事態ばかり告げていればいいというものではない。「念のために(原発から)100Kmまでの人は避難してください」などといったらパニックになるし、もし何事もなかったらそれはそれでコテンパンに批判されるだろう。

私は父のガンのことで、医者というのが非常に事実を告げるのに慎重で、症状を軽め軽めに伝えて、でももしかしたらまずいこともあり得る、というような言い方をするのだと知った。だが、それだからといって、彼らが嘘つきであるとか、治療してカネをとろうとしているのだと考えるのも、酷だと思った。

絶対に正解であるような決断の方法などない。そんな方法があったらそれは決断とは言わない。それが正しいか、正しくないか、わからないから、決断する必要がある。そして、責任というのは、そのように間違ってるかもしれないことをするから発生するのである。最近は、責任をとるとらないの前に、決断すらしない人が多い。不確定なことに対しては「わたしの専門ではない」などと言って断定をさける。そして誰かがした決断に対して後で結果が出てから鬼の首でもとったように批判する。


わたしは生きることについてあまり肯定的に考えていない。
「一体どうして生きなければいけないのか」と疑問に感じていた。

とはいっても、首をくくったり飛び降りたりするのは苦痛だろうし、迷惑もかかる。
病気になるのはいやだし、ハラがいっぱいになる程度には食事もしたい。
グルメ的な趣味はいっさいないが、酒も飲むし、あれもするし、これもする。

今回、被災者を思って行事などを自粛することに対し、行き過ぎではないかという疑問の声があがっている。
そして、そのときに必ず言われることは、「おおいにカネを使って消費を活発にし経済を復興すべきだ」。

たしかに一理あるのかもしれない。
しかし、私は、遊びたいなら、楽しみたいなら、贅沢をしたいなら、それが復興のためだとか言うべきではないと思う。
そんな大義名分をつけて遊んで、被災者が喜ぶだろうか?


思い切って言うと、私は、今回の災害があっても、以前と変らず人の生になんの意味も価値も見出せない。
津波で死ぬか、ガンで死ぬか、電車に飛び込むか、殺されるか、いずれも死は死である。

もちろん人が死んだらかわいそうに、と思う。
本人も、遺族も。

でも、死は誰にも避けられないものであり、地震や津波がおきたことについて、誰を責めるわけにもいかない。
いくら尊い命が一瞬にして失われようと、「とにかく生きてさえいればよい」という考えには同意できない。

生きていても、何の貢献もしないような人はたくさんいる。
むしろ迷惑をかけ何かを奪っていく人ばかりだ。

それはそれとして、受け止めるべきではないだろうか?
そんなに急に人間が生きることを美化するのはおかしい。

3万人の自殺者

今回の地震と津波、そしてその影響による死者が1万人を超えたということに際して、
「毎年3万人の自殺者がいる」
ということを言った人を何人か見かけた。

それをどういうつもりでいったのかはよくわからない。
「だから1万くらいたいしたことない」というつもりなのか、
「自殺者がいかに多いか、どんなに大変な事態かを実感した」というつもりなのか。

ただし、3万人というのは1年間の合計である。
1日あたり100人弱ということである。
今回の災害は、ごく短期間当日あるいは数日のうちにそれだけ亡くなったのである。

これまた当たり前すぎるくらいに当たり前のことだが、
あえて書いておきたい。

ちなみに交通事故による死者は去年5000人弱くらいだったそうだ。

ガンによる死者は、情報がさだかでないが、30万人くらいいるらしい。


そもそも、日本人全体で毎年何人死んでいるのか?
さらっと検索してもなかなか情報がなかったので統計局のサイトを見てみた。
2006/10月から2007/9月までで、
出生児数が1088146、死亡者数が1097352 
だそうである。

毎年だいたい100万人が生まれて、100万人が死んでいるのだそうだ。
上記の1年では、約1万人人口が減ったということになる。

まあ、数えちゃうとなんか違う感じもするけど。
ずいぶん大勢死んでいるのだなあと思う。


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