スキップしてメイン コンテンツに移動

告知

最近はガンを告知するケースが増えているようだ。医療が発達してガンでも早期に治療すれば高確率で治癒するようになったからだろう。私の父もガンになった。腫瘍があることはわかったが、それが悪性つまりガンであるかどうかは手術をしてみないとわからないが、悪性である可能性が高い、というような言い方をされていた。父も、我々も、もちろんショックではあったが冷静に受け止めていた。果たして開腹してみるとそれはガンであり、しかもかなり進行していた。

そのことは術後にまず家族に、そして本人にも意識が戻ってから告げられた。当然、さらにショックではあっただろうが、それでもまだ事実を受け止めて、前向きに闘病生活を送り、退院することができた。自宅に戻って父はガンについての本を読み漁り、食生活も一変した。胃の一部も切除して食欲は衰えたはずであったが、父はご飯をかきこむように食べていた。とてもまずそうだった。だが手術予後は良好だったようで、かなりやせはしたがほとんど普通に生活できるようになった。

そして最初の手術から1年たったときにガンが再発した。そのときも、前回と同じように手術前はあいまいに告げられたのだが、術後にもう手の施しようがなかったというようなこと、そして余命がいくばくもないことを告げられた。その後は我々も父になんと言っていいかわからなかった。そして、今まではすべてを本人に告げてきたのだが、余命については告げない事にした。すでに、父は認知症を発症して、支離滅裂なことを言ったり意識が混濁したりしていた。私が言いたいのは、いくら医学が発達しようが、あくまでも治癒の可能性が高いというだけであり、最新の医学をもってしても手の施しようのない事態があり、その場合にもすべてを告げるのが果たして本人のためだと言い切れるだろうか?ということだ。

なんでこんなことを書いたかというと、先ほどある人が今回の原発の事故について、ガンの告知をたとえに、「万が一の危険を知らせるべきだ」という話をしているのを聞いたからだ。それは、まだ安全だと思っているからこそ言えることだ。そして、自分はあくまでも犠牲者であり、被害者であるという意識を持っているから言えることだ。もし、自分が当事者であり、避難させたり、事故に対してどんな対処をするかを決定し指示する立場にいたら、なんでもかんでも最悪の事態ばかり告げていればいいというものではない。「念のために(原発から)100Kmまでの人は避難してください」などといったらパニックになるし、もし何事もなかったらそれはそれでコテンパンに批判されるだろう。

私は父のガンのことで、医者というのが非常に事実を告げるのに慎重で、症状を軽め軽めに伝えて、でももしかしたらまずいこともあり得る、というような言い方をするのだと知った。だが、それだからといって、彼らが嘘つきであるとか、治療してカネをとろうとしているのだと考えるのも、酷だと思った。

絶対に正解であるような決断の方法などない。そんな方法があったらそれは決断とは言わない。それが正しいか、正しくないか、わからないから、決断する必要がある。そして、責任というのは、そのように間違ってるかもしれないことをするから発生するのである。最近は、責任をとるとらないの前に、決断すらしない人が多い。不確定なことに対しては「わたしの専門ではない」などと言って断定をさける。そして誰かがした決断に対して後で結果が出てから鬼の首でもとったように批判する。


このブログの人気の投稿

死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


くしゃみの後の咳

わたしはときどき、くしゃみをした後に咳き込むことがある。
あまり体調のよくない、前日に飲みすぎたときなどによくなる。

これは、くしゃみをするとタンがでかかるのだが出し切れずにヘンなところにとどまり、
それを出そうとして起きているようだ。

これがとてもつらい。咳払いをしたり、水を飲んだり、うがいをしたりするがどれも即効性はなく、
しばらく待つしかない。

以前は、くしゃみをするとタンが口から飛び出して壁などに張り付いたものだったが。
もっと前は、そもそもタンなど出なかった。