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2011年4月4日月曜日

告知

最近はガンを告知するケースが増えているようだ。医療が発達してガンでも早期に治療すれば高確率で治癒するようになったからだろう。私の父もガンになった。腫瘍があることはわかったが、それが悪性つまりガンであるかどうかは手術をしてみないとわからないが、悪性である可能性が高い、というような言い方をされていた。父も、我々も、もちろんショックではあったが冷静に受け止めていた。果たして開腹してみるとそれはガンであり、しかもかなり進行していた。

そのことは術後にまず家族に、そして本人にも意識が戻ってから告げられた。当然、さらにショックではあっただろうが、それでもまだ事実を受け止めて、前向きに闘病生活を送り、退院することができた。自宅に戻って父はガンについての本を読み漁り、食生活も一変した。胃の一部も切除して食欲は衰えたはずであったが、父はご飯をかきこむように食べていた。とてもまずそうだった。だが手術予後は良好だったようで、かなりやせはしたがほとんど普通に生活できるようになった。

そして最初の手術から1年たったときにガンが再発した。そのときも、前回と同じように手術前はあいまいに告げられたのだが、術後にもう手の施しようがなかったというようなこと、そして余命がいくばくもないことを告げられた。その後は我々も父になんと言っていいかわからなかった。そして、今まではすべてを本人に告げてきたのだが、余命については告げない事にした。すでに、父は認知症を発症して、支離滅裂なことを言ったり意識が混濁したりしていた。私が言いたいのは、いくら医学が発達しようが、あくまでも治癒の可能性が高いというだけであり、最新の医学をもってしても手の施しようのない事態があり、その場合にもすべてを告げるのが果たして本人のためだと言い切れるだろうか?ということだ。

なんでこんなことを書いたかというと、先ほどある人が今回の原発の事故について、ガンの告知をたとえに、「万が一の危険を知らせるべきだ」という話をしているのを聞いたからだ。それは、まだ安全だと思っているからこそ言えることだ。そして、自分はあくまでも犠牲者であり、被害者であるという意識を持っているから言えることだ。もし、自分が当事者であり、避難させたり、事故に対してどんな対処をするかを決定し指示する立場にいたら、なんでもかんでも最悪の事態ばかり告げていればいいというものではない。「念のために(原発から)100Kmまでの人は避難してください」などといったらパニックになるし、もし何事もなかったらそれはそれでコテンパンに批判されるだろう。

私は父のガンのことで、医者というのが非常に事実を告げるのに慎重で、症状を軽め軽めに伝えて、でももしかしたらまずいこともあり得る、というような言い方をするのだと知った。だが、それだからといって、彼らが嘘つきであるとか、治療してカネをとろうとしているのだと考えるのも、酷だと思った。

絶対に正解であるような決断の方法などない。そんな方法があったらそれは決断とは言わない。それが正しいか、正しくないか、わからないから、決断する必要がある。そして、責任というのは、そのように間違ってるかもしれないことをするから発生するのである。最近は、責任をとるとらないの前に、決断すらしない人が多い。不確定なことに対しては「わたしの専門ではない」などと言って断定をさける。そして誰かがした決断に対して後で結果が出てから鬼の首でもとったように批判する。