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2011年4月23日土曜日

ソクラテス

私が尊敬する「哲学者」は、ソクラテス、イマヌエル・カント、フランシス・ベーコン、キェルケゴールである。
彼らに共通するのは単なる思弁家ではなく、哲学者というよりも倫理家であることである。

このなかでソクラテスはちょっと毛色が違う。彼はこの4人のなかでももっとも倫理にこだわった人であった。だが、彼が他の3人と決定的に違うのは、キリスト以前の人であるということである。だから彼は、「罪」という概念を知らないのである。

彼はさかんに「善や徳というものが教えられうるか」ということを考えた。
そして安易に結論は出さなかったが、ほとんど「不可能である」と言っているに等しかった。
善は教えられないが、生まれつきそなわっているものでもない。
教えられうるならどうして不肖の息子が存在するのか。生まれつきそなわっていないのが事実であることはこの世の悪人達の所業を見れば、そして自分自身を見つめてみたときに明らかである。

そしてその問いにはっきりと答えを出したのがイエスである。
徳は教えられない。人間はうまれついての悪者で、罪深き存在である。ゆえに、救いが必要である。

「罪」と「救い」という考え。
これがソクラテスにはたどりつけなかったものであり、カント達は子供の頃から教えられてきたものである。
こんな考えが、地上に偶然湧いたような存在にどうして思いつくだろう?

地上から到達できる最高の境地にたどりついたのがソクラテスだった。
彼の言う「無知」というのはほとんど「罪」と同じものに迫っていた。
だが、それはあくまでも無知であり、「知らないからできない」のであり、「悪いとわかっていながら悪を為してしまう」ことではなかった。

人が悪を為すのは「罪」のゆであるとなると、人はその責任を負う。
それが「無知」の故であれば、責められないだろう。せいぜいが、「知ろうと努力することを怠った」ことを責められるくらいだ。

イエスが言う「罪」というのはそんな消極的な欠点ではない。もっと積極的な、恥ずべき、いまわしい、のろわしいものである。

ソクラテスは男色家だったのだろうか?それも少年を対象とした。
そうとしか思えないような発言がよく出てくる。
これぞ、罪。身をもって現している。