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地球は丸くない


遠くまで続く道を見ると、先が細く見えますよね?でも、だからといって「道は台形をしている」とは考えませんね?道は普通はある一定の幅の細長い長方形であると、みんな認識しています。地球が丸いことが、水平線が広く見渡せるところではわかると言いますが、それも道の先が細く見えるのと同じようなことじゃないでしょうか?私は地球が球形であるなどというのは詭弁であると考えています。われわれが地球の丸さを実感できないのはあまりに巨大だからではなく、実際に丸くなどないからです。

私はそのこと(地球が丸くないこと)についてまだインターネットが普及する前のパソコン通信時代に、Niftyの掲示板に書き込んだことがあります。何件か反応があったのですが、私が主張した「地球は球形ではない」ということが理解されないことに驚きました。私が主張していることを正しいと認めないことに驚いたのではなく、私が主張している内容を理解できない人に驚いたのです。ある人は「地球は完全な球ではなくちょっとつぶれている」と言い、ある人は「凹凸がある」などと言うのです。また、私が例として述べた東京からブラジル、つまり「地球の真裏」に飛ぶ飛行機は、もし地球が球形であるならその軌道は半円を描いて機体がひっくり返るのかということについて、離着陸時の軌道は飛行中と異なるからきれいな半円にはならない、などと言う意見もありました。

私はこの反応が非常に象徴的であると思いました。私が日ごろ感じていた人々がこだわることのどうでもよさ、逆に信じて疑わないことの奇妙さ、うそ臭さ、そういう感覚が地球が球形であるということについての反応でも同じようだったからです。私の言うことを理解しておもしろい考えですねといってくれた人が一人だけいたかな・・・

私もそれはあくまで素人ならではの素朴な皮肉というか逆説のようなものであることも自覚していましたがそれほど支離滅裂な主張ではなく実は科学的にも核心をついているのではとも思っていました。ある日図書館で見つけたホーキング博士の本で、球形であるかどうかについてではありませんが、「地球が静止していて他の天体が動いていると考えることもできるが太陽を中心に惑星が公転していると考える方が自然である(からそう考えているに過ぎない)」と述べているのを見て、少し満足しました。

ですが、私が本当に言いたかったことは、「地球は丸くないとも考えられる、そういう発想の転換もある」などということではないのです。一体自分は、あなたは、今どこにいるのか。地球の上に立っているのではないのか。地球全体を球であると認識できるほどの上空から眺めているのか、どっちなのか。どうしてそんな、これからの人生でもまずあり得ないような状況、立場からの観点で物事を捉えようとするのか。それが「客観的」なオトナの態度なのか。そういうことが言いたかったのです。

そしてこのことを考えるきっかけになったのは、その頃上映された「アポロ13」という映画でした。アポロ13はご存知の通り事故を起こして月面に着陸できずに、それでもなんとか無事に地球へ帰還します。映画では当然宇宙から見た地球の姿が何度も写しだされます。まん丸な、美しい天体です。そして、地球へ帰還するときに大気圏?か何かを通過する1分だか3分だかの間、交信ができない時間があり、地上で待つ人々がその間固唾を飲んで待つシーンがあります。そして確か交信が再開した後に映し出されたのはアポロが空から海へ落下してくるところでした。もう、丸い地球ではありません。それは先ほどまで暗闇に浮かんでいた美しい丸い天体とはまったく別の世界でした。

私はそれを見て、これまた当時普及したてのパソコンで使用される「アイコン」を連想しました。アイコンというのはアプリケーションとかプログラムとか言われるものの実体ではなく、目印というか象徴のようなものです。それをダブルクリックするとアプリケーションが起動して文字を入力したり画像や動画が表示されたりする。宇宙空間から見る地球というのはアイコンのようなもので、それは実体ではない。そんなことから私は地球は球体などではないという発想をしていったのです。


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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。