スキップしてメイン コンテンツに移動

奴隷

就職が困難で椅子が少なく競争が激化し多くのものが職にあぶれている、らしい。私は本当に仕事の無い人というものをほとんど見たことがない。そりゃあ、誰でも知っているテレビでCMをやっていたり日常そのブランドを見ない日はない、くらいの有名企業に就職したかったが出来なかった人、しようとすらしない人、そして安い給料に甘んじて退屈な毎日を過ごしている人ならたくさん見てきた。私もその一人かもしれない。だが、「全く仕事がない」などということが本当にあるのだろうか?不景気だという今でも、ときどきポストに求人広告が入っている。バスの運転手とか。インターネットにも求人サイトがあり、条件を絞り込んで検索しないと表示できないほどの求人情報が公開されている。さらに新聞もあるし、少なくはなったが雑誌もある。コンビニの店先にはアルバイト募集の貼り紙がしてある。それらのすべての求人のいずれにもマッチしない求職者などいるのだろうか?

私はあえてある求人機会提供機構を挙げるのを避けた。それは一般的にもっとも基本的なものとされている公共職業安定所、ハローワークである。私も職安で仕事を探し、応募したことがある。しかし、その求人内容、面接した相手の態度、何から何まで一般のつまりインターネットや雑誌などで募集しているものとは異質であるのを感じた。一言で言えば、まったくその気が無い。そしてまた、求職している私自身にもあまり仕事に就こうという気がなかった。なぜなら、仕事をしなかったら失業手当がもらえるからである。職安で求職するのはあくまでも失業手当を受け取るためだったのだ。私は最初に会社員を辞めたときは職安に行かなかった。仕事をしたくなかったからだ。しばらく休みたかった。実家に居たので生活の心配はいらなかった。親も働けなどと言わず、休むことをすすめているようにさえ見えた。私は寝たいだけ寝て食べたいだけ食べて飲みたいだけ飲んでいたがすぐに退屈して、3ヶ月くらい休んだある日新聞に載っていた小さな求人広告に応募して仕事を再開した。とりあえずカネがないと遊べない。「遊ぶカネ欲しさ」の就職である。犯罪行為と動機は同じだ。

話がそれたが、職安なんかで本気で仕事を探している人も人を探している人もいない。求職側の実情はよく知っているが求人側の事情は知らない。でも、きっと職安に求人するだけでなんらかのメリットがあるのであろう。私がこのところこの場で述べている不満は、就職機会を増やせとか需要を創出しろとか言うことではない。ひとりひとりの生き方というか心がけに対する不満というかじれったさのようなものである。それに対して、よく見かけるのがこの状況を「社会の問題」「日本の問題」と捉え、その「構造」を変革すべきだと言う人、そしてそれを実行しようとする人たちである。彼らがどこまで本気なのかはわからない。そういうことを提言するだけでおカネをもらっている人もずいぶんいるようだ。何か問題があったらそれを根本的に解決すべきだ、というのはもっともらしいがほとんどの場合それはワガママである。自分だけでなく「社会」全体の利益のために提言しているように見えても、自分の欲求を実現したいだけなのがほとんどである。

もうひとつ別のタイプの人たちがいる。この人たちは社会を改革しようなどとは考えない。それは私と同じである。彼らは自分がしたいことをする。自分が正しいと思うことをする、というか、そもそも正しいとか正しくないとかを考えない。人は自由で、法に触れなければ何をしてもかまわない、多少人に迷惑をかけるようなことをしてもその見返りはその人が受ける、というような考えの人々である。おそらく今の日本人のほとんどがそうである。そして彼らは自分達のことを「左翼でない人」と考えている。「自由主義」というのは言い過ぎで、そんな積極的なものではない。もちろん「保守主義」などではない。権威や組織は大嫌いである。彼らのもっとも特徴的な性質は、そのような彼らの自由気ままな生き方が、結果としてよい社会を実現する、と信じていることである。需要と供給のバランスによって価格が調整されるような原理で、AさんのわがままとBさんのガマンが調整されて世の中が丸く収まると考えている。わがままを言い過ぎれば損をする。楽をすれば後で苦労する。おいしいものを食べれば太る。でも食べたいものを食べたのだからしかたがない。でも、死ぬような病気になるのも困るからほどほどにする。そんな原理で世の中が丸く収まらないのは言うまでもない。でも彼らは何よりも強制を嫌う。自分の自由意志でしたことでないと幸福とはいえないと考える。そして、私も彼らのように生きてみようとしてみたのだが、どうしてもできなかった。

わたしが自分の自由意志に従って生きようとすると、何もできないのだ。私の意志が命ずるものはとんでもないワガママかあきれるほどの無駄なことばかりで、少なくとも社会をよくするようなものは何もない。だから私は、自分の行動原理を自分以外のところに求めた。それはあるときは親であり、あるときは教師であった。社会人になってからは上司、先輩、顧客など。それは実務的なことだけでなく、もっと精神的なことでも、有名な作家や哲学者や音楽家などの考えにならったりした。先にあげた「自由主義者」達も似たようなことをするが、彼らが私と違うのは、誰に従うか、誰を尊敬するかも彼ら自身の選択であると考えていることである。彼らは確固とした絶対的な何かを自分の中に持っているのである。

遠まわしに言うのはこれくらいにしよう。私は彼らが信頼している自分自身というものを疑っている。彼らはそれを理性と呼ぶのか、人間性と呼ぶのか知らないが、私はそんなものを信用しない。犯罪者やなまけものは例外なのではなく人間の本性である。法律を守って経済活動をしているのは人間の自由意志によるのではなく、そうするように強制されているだけである。それを強制ではなく自由意志だなどと考えている人間は心までその強制するものに支配されている奴隷である。

このブログの人気の投稿

死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。