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2011年7月30日土曜日

奴隷

就職が困難で椅子が少なく競争が激化し多くのものが職にあぶれている、らしい。私は本当に仕事の無い人というものをほとんど見たことがない。そりゃあ、誰でも知っているテレビでCMをやっていたり日常そのブランドを見ない日はない、くらいの有名企業に就職したかったが出来なかった人、しようとすらしない人、そして安い給料に甘んじて退屈な毎日を過ごしている人ならたくさん見てきた。私もその一人かもしれない。だが、「全く仕事がない」などということが本当にあるのだろうか?不景気だという今でも、ときどきポストに求人広告が入っている。バスの運転手とか。インターネットにも求人サイトがあり、条件を絞り込んで検索しないと表示できないほどの求人情報が公開されている。さらに新聞もあるし、少なくはなったが雑誌もある。コンビニの店先にはアルバイト募集の貼り紙がしてある。それらのすべての求人のいずれにもマッチしない求職者などいるのだろうか?

私はあえてある求人機会提供機構を挙げるのを避けた。それは一般的にもっとも基本的なものとされている公共職業安定所、ハローワークである。私も職安で仕事を探し、応募したことがある。しかし、その求人内容、面接した相手の態度、何から何まで一般のつまりインターネットや雑誌などで募集しているものとは異質であるのを感じた。一言で言えば、まったくその気が無い。そしてまた、求職している私自身にもあまり仕事に就こうという気がなかった。なぜなら、仕事をしなかったら失業手当がもらえるからである。職安で求職するのはあくまでも失業手当を受け取るためだったのだ。私は最初に会社員を辞めたときは職安に行かなかった。仕事をしたくなかったからだ。しばらく休みたかった。実家に居たので生活の心配はいらなかった。親も働けなどと言わず、休むことをすすめているようにさえ見えた。私は寝たいだけ寝て食べたいだけ食べて飲みたいだけ飲んでいたがすぐに退屈して、3ヶ月くらい休んだある日新聞に載っていた小さな求人広告に応募して仕事を再開した。とりあえずカネがないと遊べない。「遊ぶカネ欲しさ」の就職である。犯罪行為と動機は同じだ。

話がそれたが、職安なんかで本気で仕事を探している人も人を探している人もいない。求職側の実情はよく知っているが求人側の事情は知らない。でも、きっと職安に求人するだけでなんらかのメリットがあるのであろう。私がこのところこの場で述べている不満は、就職機会を増やせとか需要を創出しろとか言うことではない。ひとりひとりの生き方というか心がけに対する不満というかじれったさのようなものである。それに対して、よく見かけるのがこの状況を「社会の問題」「日本の問題」と捉え、その「構造」を変革すべきだと言う人、そしてそれを実行しようとする人たちである。彼らがどこまで本気なのかはわからない。そういうことを提言するだけでおカネをもらっている人もずいぶんいるようだ。何か問題があったらそれを根本的に解決すべきだ、というのはもっともらしいがほとんどの場合それはワガママである。自分だけでなく「社会」全体の利益のために提言しているように見えても、自分の欲求を実現したいだけなのがほとんどである。

もうひとつ別のタイプの人たちがいる。この人たちは社会を改革しようなどとは考えない。それは私と同じである。彼らは自分がしたいことをする。自分が正しいと思うことをする、というか、そもそも正しいとか正しくないとかを考えない。人は自由で、法に触れなければ何をしてもかまわない、多少人に迷惑をかけるようなことをしてもその見返りはその人が受ける、というような考えの人々である。おそらく今の日本人のほとんどがそうである。そして彼らは自分達のことを「左翼でない人」と考えている。「自由主義」というのは言い過ぎで、そんな積極的なものではない。もちろん「保守主義」などではない。権威や組織は大嫌いである。彼らのもっとも特徴的な性質は、そのような彼らの自由気ままな生き方が、結果としてよい社会を実現する、と信じていることである。需要と供給のバランスによって価格が調整されるような原理で、AさんのわがままとBさんのガマンが調整されて世の中が丸く収まると考えている。わがままを言い過ぎれば損をする。楽をすれば後で苦労する。おいしいものを食べれば太る。でも食べたいものを食べたのだからしかたがない。でも、死ぬような病気になるのも困るからほどほどにする。そんな原理で世の中が丸く収まらないのは言うまでもない。でも彼らは何よりも強制を嫌う。自分の自由意志でしたことでないと幸福とはいえないと考える。そして、私も彼らのように生きてみようとしてみたのだが、どうしてもできなかった。

わたしが自分の自由意志に従って生きようとすると、何もできないのだ。私の意志が命ずるものはとんでもないワガママかあきれるほどの無駄なことばかりで、少なくとも社会をよくするようなものは何もない。だから私は、自分の行動原理を自分以外のところに求めた。それはあるときは親であり、あるときは教師であった。社会人になってからは上司、先輩、顧客など。それは実務的なことだけでなく、もっと精神的なことでも、有名な作家や哲学者や音楽家などの考えにならったりした。先にあげた「自由主義者」達も似たようなことをするが、彼らが私と違うのは、誰に従うか、誰を尊敬するかも彼ら自身の選択であると考えていることである。彼らは確固とした絶対的な何かを自分の中に持っているのである。

遠まわしに言うのはこれくらいにしよう。私は彼らが信頼している自分自身というものを疑っている。彼らはそれを理性と呼ぶのか、人間性と呼ぶのか知らないが、私はそんなものを信用しない。犯罪者やなまけものは例外なのではなく人間の本性である。法律を守って経済活動をしているのは人間の自由意志によるのではなく、そうするように強制されているだけである。それを強制ではなく自由意志だなどと考えている人間は心までその強制するものに支配されている奴隷である。