動画論

携帯端末での動画視聴の問題というかテレビや映画などとの違いをもう一つ見つけた。
それは、一人で見るということである。一人暮らしの人が自室でテレビを見るのも一人であるが、携帯端末での視聴はそれよりもっと私的な視聴である。なぜなら、携帯端末を持って外出するということは、たとえそれが一人での行動であっても、周囲に人がいて、多少公的な態度をとるべき状況である。その状況で、あえて自室にいるときと同じように動画を視聴するというのは、異常とさえいえる私的さである。

先ほど私は「笑点」を例にあげたが、たとえば携帯電話で「笑点」を見るという状況を考えてみよう。日曜の午後5時半である。その時間に外出している。しかし、画面を見るのだから歩くことはできない。道端に立って30分間イヤホンをして画面を見て笑っていられるだろうか?普通の人なら恥ずかしいと思うだろう。

電車に乗って座っている時に見るということはあるだろう。しかしそれには日曜の夕方5時半から30分間電車に乗り続ける状況が必要になる。喫茶店などに入って見るか。いずれにしても、そんなことをするなら5時半までに家に帰ればいい。
録画したものを見るというなら、なおさら家で見ればいい。

テレビがつまらない、ネットが放送に取って代わる、というような事が言われて久しいがまだまだテレビは多くの人に享受されており私はネットがテレビに取って代わることなどないと思っている。テレビとインターネットは全く異質なのである。どちらも大勢の人に動画を提供するが、インターネットがテレビと決定的に違うのはよく言われるように「オンデマンド」であることである。オンデマンドという言葉は長所としてしか使われないが、それはネットによる配信の欠点でもある。自分が見に行かないと見ることができないのである。

一方テレビは受信者の都合におかまいなしに一方的に放送する。受信者にできるのは放送局を選択するか、電源を切って全く見ないかだけである。そして、これまた重要なのが、たとえ受信者がチャンネルを変えても、依然としてその番組は放送され続け、誰かがそれを見ているということである。

最近はネットでもストリーミングとかいう、テレビなどの放送と似たような配信方式が利用されている。だがこれも、テレビと大きく違う点がある。すぐに思いつくのは2つだ。ひとつは、テレビと比べて「チャンネル」数が膨大であること。これは長所というより欠点である。つまり誰でも彼でも、どんなにくだらないものでも私的なものでも、インターネットでは放送として成立してしまう。その中から本当に面白いものを選択して視聴するためにはなんらかの番組選択システムが必要になる。

もうひとつは、ストリーミングでは視聴者が増えるほど放送の品質が低下することである。テレビにはないことである。テレビでは視聴者は多ければ多いほどよい。

動画の視聴について

スマホだとかワイファイだとか、すっかりPCが過去の遺物になりつつある昨今である。
回線の高速化、端末の高機能化により、動画の視聴も外出しながらできるようになった。
ワンセグとかいうしくみもあって、詳しいことはわからないが携帯電話などでテレビが視聴できる。

しかし、私は外出中に携帯端末で動画を視聴することはまず、ない。

音楽については、ほんの数分しかかからないコンビニへの買い物であってもiPhoneを持ってイヤホンをするくらい常時聴いているのだが動画視聴は電車の中でもしない。

私もワンセグ携帯が登場したときはおもしろがって外出中に笑点とか競馬中継とかを見たりした。しかしそのうち、全く見なくなった。今ではワンセグ機能のついた端末を持ってすらいない。iPhoneにはyoutubeのアイコンが最初からあるが、iPhoneでyoutubeを見ることもほとんどない。それは電波が弱いとか画面が小さいとかのために動画の質が見るに耐えないからという理由ではない。

「動画」を視聴するというのは、人間を非常に強く拘束する。音楽であれば、イヤホンをしながら歩くことはできる。ただし、後ろから車や自転車が来ても気付かずにすぐそばを通って驚くことがある。また、自分ではなく他人がイヤホンをしている場合、その人が肩にかけているカバンを人にぶつけても気付かなかったりするのを見ている。音楽でも、明らかに人を拘束し活動を制限するが動画になったら、もう歩みを止めさせてしまうくらいの力がある。

そうなると電車に座っているときとか、飲食店などで座ってゆっくりしているときなどに見ることになる。逆に言うと、動画を見たければ落ち着いて視聴できる場所に移動しなければならない。たとえば好きなスポーツの中継だとか、いつも見ているドラマだとかを、外出中に携帯端末で見る人は少ないだろう。その時間には万障繰り合わせて帰宅するとか、録画しておくとかして、ゆっくりじっくり見るはずである。動画というのはそういうものである。動画視聴という行為の本質が「いつでもどこでも見られる」という事に矛盾するのである。

だから、いくら端末が高性能になっても、電波状況が改善しても、動画というのは家でゆっくりみるべきものであることには変わりがないので、携帯端末で動画を見るような仕組みは不要である。
電車の中でCMを流すようなものもあったが、アレも同じ理由で不要だ。最近なくなったのではないか?

首相公選制不要論

私は首相公選制に反対である。

そもそも民主主義自体に否定的な考えなのだが、それはおいておいて、まず、現在だって間接的に首相は国民が選んでいる。
国民が投票して選ばれた議員が、首相を選んでいるのだから。公選制というのは、これを直接国民が投票できるようにするというものである。つまり、民主主義の民主度を上げることである。もっとも民主度の低いのは、独裁政治である。もっとも高いのは、無政府主義である。

国民一人一人の意見がダイレクトに反映することはすばらしいことのように思えるかもしれないが、もし本当にそれがいいことであるなら、そもそもリーダーシップのある議員や首相は必要ない。国民一人一人の意見が尊重されるのだから、議員はその意見をまとめる程度の仕事しか必要ない。そもそも、選挙によって議員が選ばれ、その中から首相が選ばれるというのはどういうことだろうか?それは、より優秀な人間を選んでいるということではないだろうか?そんなことは当たり前だろうか?
国民の大多数は愚かで感情や欲望によって生きているから、その愚かな大衆を率いて指導する優秀なリーダーを選ぶのが選挙である、と考えている人が多く、実際にそうなっているだろう。

だがこれはあくまでも実情がそうなっているだけであって、本来の民主主義の思想とは矛盾するものである。大衆が愚かであるなら優秀なリーダーを選ぶことができないし、大衆が愚かでないなら強力なリーダーシップは必要なく、多数決をとって賛成者と反対者の数を数える事務的な仕事をする人がいればすむはずだ。「永田町の論理」とか「密室政治」と言われるようなものがあるのも、愚かな大衆によって愚かなリーダーが選出されないようにするための努力である。

要は、先ほど言った「民主度」をどれくらい強めるかあるいは弱めるかの話である。大衆が愚か者ばかりの場合は弱めたほうがよいし、皆が賢者であるなら強めたほうがよいだろう。だが、極端な話、国民全員が聖人君子であったら、その場合はもうだれがリーダーになってもよくなり、誰もやりたがらなくなる。小学校の学級委員とか、自治会の役員のようなものである。
首相公選制を願うのは、そういう人が本当にいるのかは知らないが、本当に選ばれるべきリーダーが選ばれていない、と考えているからであろう。「俺達はもっと賢い、議員なんかより日本のリーダーにふさわしい人物を選ぶ目を持っている」と思っているのだ。しかし、本当にそうなら、国民ひとりひとりがリーダーを選ぶ目を持っているなら、逆に誰がリーダーになってもいいのである。われわれが今目にしているリーダー達は、われわれの選んだリーダーなのである。

完全な人などいない。失言もするし、判断ミスもするだろう。それが致命的なものであれば、次の選挙で落ちるまでである。任期途中で交代する手段もある。だが今はそのような民主主義のシステムによる交代ではなく、「世論」の圧力による辞任ということが続いている。首相もしかり、大臣もしかりである。これはどういうことだろう?今の選挙の仕組みでは民意が反映されないのか?どうして多数意見を獲得したはずのリーダーが、あっというまに世論の反感を買ってしまうのだろうか?これは、国民が民主主義のルールを忘れているとしか思えない。民主主義では、「優秀な人が国を治める」「正しい考えの人がリーダーになる」という価値観や判断が、特定の人間がおこなったのでは独裁になるのを防ぐために、多数決にしているのである。つまり、誰が優秀で誰が正しいかなど誰にも決められない、多数の票を獲得した人がリーダーとなる、ということである。そして気をつけなければいけないのは、「多数の票を獲得した人が優秀であり正しい人間であるということにはならない」、ということである。

多数決では、民主主義では、「正しいこと」というものは存在しないのである。「多数が正義」なのではない。「正義は存在しない」のである。それを皆忘れているのではないか。だから、選ばれた人に正義を要求して、それがないので不満を持つのだ。

つまり、悪いのは選ばれた人ではなく、選んでいる我々、世論調査で不満を表明して総理大臣を辞任させている我々なのである。

GarageBand

iPad2でGarageBandを使ってみた。DTMのソフトである。
MacOSにはこれがプリインストールされているそうだ。すごいな。

DTMソフトはACIDを使ったことがあるが、iPadのGarageBandのすごいところは、iPadが楽器になることである。
ギター、ベース、ドラム、ピアノがあるが、ピアノはけっこう使える。

ピアノ以外の楽器は、Smartなんとかといって、ワンタッチでコードを弾けたりするようになっている。

ACIDの時は、既成のループを張り合わせるのがメインなので、どうしても機械的になる。
やっぱり音楽というのは人間が演奏するのが面白いのであって、テンポがちょっとずれたり、
音程がはずれるのもまた味である。

ただ、ひとつ困ったことがあって、鍵盤を4本の指で同時におさえてそれがずれると、iPadのアプリ切り替えジェスチャーが機能してしまう。

最近知ったのだが、5本指でつまむようにするとアプリが最小化され、4本指で左右に動かすとアプリ切り替えができたりする。これが、ピアノをワイルドに弾くと機能してしまうのである。

このジェスチャーを無効にする設定がありそうなのだが方法がわからない。


それから、iPadやiPhoneのイヤホンジャックにギターをつなげるアダプタがある。
iRigというものだ。

買ってみたらタダのケーブル変換のようなものでこれで5000円近くするのは高いなと思った。

GarageBandにはアンプシミュレーターもついている。
いろいろ試してみたが、なんかイマイチだ。ギターのせいかな。音があまりよくない。


天皇制と首相公選制

朝まで生テレビを見た。テーマは「首相公選制」であった。議論はなかなかそのことに触れなかったが、朝生のテーマなど酒のつまみのようなものだから面白い議論ができればその辺はどうでもいい。結論なんか最初から出るわけがないからだ。結論を出すつもりなどさらさらなく決して分かり合えない人たちが言いたい放題言い合うのがこの番組の楽しさである。

本題の「首相公選制」は是か非かということについては非という人はいなかった。おおいにやるべしという事についてはほぼ意見は一致していた。一人、韓国人の女性が強力なリーダーは生まれるが不安定でもあると、欠点もあることを指摘していた。

そして話題は「どうして公選制が実現しなかったのか」になった。誰がつぶしたとかなんとか細かい話はいろいろ出たが、決定的な答えは出なかった。

そこでひとりの大学教授が「直接選挙で誕生した首相には強力なカリズマが発生し天皇と競合することを恐れた」というようなことを言った。それについては賛成意見も反対意見もほとんど出ず、あまり議論がもりあがらず場がシーンとしてしまい、それ以後過去の経緯を振り返ることもしなくなった。

多分、議論に参加していた人たちの多くが『すでに天皇にはカリズマなどない』とアタマの中で思っただろうが、さすがにテレビでそれは言えなくて黙ってしまったのだろう。(もしかしたら誰かがポロっと言っていたかもしれないがそんなに声高には言われなかった)。

私にもそれくらいしか理由は考えられない。日本国憲法や官僚制がずっと維持されているのも同じ理由である。日本というのは、天皇陛下という、非常に漠とした得体の知れない、人畜無害だが容易に近づくことが許されない不思議な存在によって、文鎮のように押さえられているのである。

もしかしたらこんな文鎮はなくてもいいかもしれないと誰もが思ったことだろう、しかし、戦国時代も、江戸時代も、敗戦と占領も通り抜けて今に至るまで持続していて、いま日本の社会でまともな生活をしている人で天皇制を公然と否定できる人はいないはずだ。せいぜいが疑問を呈したり無視したりする程度である。

私は天皇制と日本は切っても切れないものであるのだと、ほとんどあきらめている。もし天皇制を廃止することになるなら、その時はもう日本という国自体が不要になるときだ。アジア諸国連合とか、あるいは環太平洋諸国連合とか、連邦制のようなものになるときだ。そして、近いうちにそうなるであろう。

「日本が生き残るためには」などという、よくわからない「ナショナリズム」に基づいて考えているうちは天皇制はなくすことはできない。そのような動機でいる限りは、天皇を首謀として戦乱でも巻き起こして惨敗して他国により処刑されない限り天皇制を廃することはできないであろう。

6+5x3

という数式を就職試験で出したら、33と答えた学生が多くて驚いた、というようなニュースがあった。

それに対して得意げに「21だろwwww釣りかwww」などといってる反応が見られたが、
私はこんな数式を試験に出す人のほうがバカだと思う。

いったい、こんな数式を解かせて何を測ろうというのか?
正しい答えを出せるかどうかは「乗算は加減算より先にする」ということを知っているかどうかにかかっている。
とても簡単な数式ではあるが、これはいわゆる「ひっかけ問題」である。

それができたからといって数学の能力があるともいえないし、できないから数学ができないとも言えない。

そもそも、「6+5x3」とは何なのか?
こんな単純な計算に何の意味があるのか?

くだらない。
私は、サラリーマンはこんなことをできるかどうかで競い合う低級な人種なのだなあと冷ややかに見ていた。

「別会計になります」 2

1ヵ月後、同じように缶飲料とクレジットの支払の用紙を持ってレジへ行った。別にねらったわけではないが、前回文句を言った初老の店員だった。また缶と紙をならべて置くと、こんどは少し下手に出て、「すみませんが別会計でお願いします」とか言ってきた。俺は機嫌がよかったというか疲れて怒る気力もなかったのでそこは受け入れたが、飲料のほうを先に処理しようとした店員を制して、「こっちを先にお願いします」とクレジットの支払用紙を差し出した。クレジットの支払が3万ちょっと、飲料は200何十円である。私はクレジットの支払額の百円以下の小銭と4万円を出した。店員はそれを処理して数枚の千円札を俺に渡した。俺はその千円札の1枚を抜き取って、レジにおいてある丸いプラスチックの皿に置いた。店員は再度レジを操作し、つり銭を俺に渡した。

なんでこれをいっぺんにできないのか。クレジットの代金のおつりから買い物する商品の代金を引いて客に渡せば済むではないか。「こうすればいっぺんでできんじゃん」と俺は独り言のように言ったが店員はもはやあいづちをうつことすらしない。
クレジットの支払ではないが、公共料金や税金の支払のときは逆に「会計はご一緒でよろしいですか」と聞いてくる。それが普通だと思う。ファミリーマートでもそうではなかったっけ?そんなことは聞かれるのもめんどくさい。誰が公共料金とお弁当の会計を、なんのために別にするのだろうか?そんな疑問さえ抱いていたところに、今度はむこうから「別会計にしろ」と言ってきたのだからたまらない。

私はセブンイレブンの関係者でもファミリーマートに恨みのあるものでもないが、とにかくファミマでは不愉快な思いをすることが多いのだからしかたがない。

「別会計になります」

最近ファミリーマートのTカードというものを申し込んだ。
クレジット機能のついているものである。

クレジットカードといえば銀行口座で引き落とすものだと思っていたが、銀行口座の情報を伝えることなく発行されたのでどうするのかなと思ったら、店内にある端末で操作をして発行される紙をレジに持っていって支払う仕組みであった。

初めての支払をするときに、発行されたレシートのような紙と、ついでに飲み物を買おうとおもってそれをとってレジに行った。

その缶飲料を置き、クレジットの支払の紙をならべて置いた。

すると店員がなんかゴニョゴニョ言ったのだがよく聞こえなかったので、「これもお願いします」と紙を差し出した。

店員は「別会計になります」と、俺を見もせずにレジを操作しながら言った。


俺は一瞬、彼が何をいっているのか理解できなかった。『べつかいけい・・・?別会計・・・・?別もなにも、金払うのは俺しかいないじゃん・・・別ってどういうことだ・・・・?クレジットの支払が1万円、ビールが250円だったら10250円払えばいいんじゃないのか・・・?別々に会計するってどういうことだ・・・・?』

というようなことを3秒くらい考えて、俺はそのレジにいた60歳くらいの男性店員に文句を言った。
「そっちが別にレジ打つのはどうでもいいけどカネ払うのは俺なんだから一緒にあずかってそっちでレジだけ別々に打てばいいだろこの野郎」

とかなんとか、けっこう汚い言葉でののしった。

しかし店員はニヤニヤしながらいつものように人差し指でたどたどしくレジを操作して何も言わない。

ようやく会計が終わって、俺は「めんどくせえな、やめちまえこんなの」と言うと、店員は「本部に言っておきます」とやはりニヤニヤして言った。

『わかってないな。レジを別会計にするのはしかたないとしても客からカネをもらうのは一緒にできるんだよ』
と俺は思ったが時間がかかりそうだったので後日に教えてやることにした。

(つづく)

「私立文系」はダメ

「私立文系」は一番ラクである、ということは私が大学を受験したときも言われていた。過激な人は「私立文系行く奴なんか男じゃない」と言っていた。20年ほど社会人を経験して、いろんな人たちを見てきたが、確かに「私立文系」はダメだ。なんとなく感じていたことではあるが、最近、ある有名大学出身の人間と仕事をする機会があってそれを確信した。「え!○大の○学部!?」と驚くようなところである。そこ出身の人と直接話したり仕事をしたりするのは初めてのことであった。しかし、その人は仕事があまりできなかった。仕事ができないだけでなく、私はその人に気分を害されることが多かった。そして、最近私が悩まされていた若手二人も私立文系卒であることに気付いた。

何がダメなのか。簡単に言うと、「アタマが悪い」というよりも、「性根が腐っている」。純粋に経済学や法学などを勉強しようと思って私立文系の道を選ぶ高校生などほとんどいないであろう。それも、なんとなくつぶしがきくとかいうかわいいものではなく、一番ラクで得する道として選んでいるのである。勉強や受験というものを、社会に出るために越えなければいけないハードルであると考えている。今では「大学くらい出てないと就職できない」というのはほとんどの人が考えていることで、事実と言ってよいだろう。もちろん、私立文系を選ぶような彼らに一芸に秀でて一発当ててやろうなどという野心はない。越えなければいけないハードルなら一番低い方がいい、という選び方だ。

その姿勢は仕事にもあらわれる。仕事というものも、「生きるために課せられる障碍」のようにみなしている。だから最低限のことしかせず、できるだけ楽をしようとする。彼らは仕事をしていて、「疑問」を示すことが非常に少ない。なぜそれをするのかとか、なぜこういう結果になるのかなどについて考えることをしない。ある物をA地点からB地点に移動する、というようなことしかしない。何のために移動するのか、そもそもなぜA地点にあったのかなどを考えない。とりあえずA地点から移動すればよいときに、移動先を告げないと、「どこに移動すればいいですか」と聞いてくる。それも、単にわからないから質問しているというのではなく、「不十分な指示では仕事ができない」というような不満をこめた聞き方である。(これはたとえではなく、文字通りあるモノを移動したときの話である。)考え方も、行動も、消去法的である。何か言うのは、自分の任務を遂行するのに差し支えることを除去するためだけである。他人にアドバイスなどしない。自分がしたのと同じ事を誰かがやることになれば、自分がした苦労を繰り返さないように注意点やコツなどを教えるのが普通であるが、彼らはそれができない。どうも、そういうことをするのはその人の為にならないと考えているようである。彼らは大学で何を学んだのだろうか?

そうなる原因は、数学をやっていないことであろう。論理的思考力がないとかよりも、困難を避けようとする性格というか性根。さっき書いた「性根が腐っている」ということである。単に勉強が嫌いだったりバカなだけだったら大学などいかないのだが、彼らには人より贅沢をしラクをして生きたいという欲求だけは人一倍ある。これがタチが悪い。

それに対して、やっぱり国立大学の理系を出ている人はすごい。努力家で、話し言葉も書き言葉も丁寧で理路整然としている。「頭がいい」というよりも、とにかく「誠実さ」を感じる。「私大文系」の対極である。



これはあくまでも「そういう傾向がある」という話である。
傾向話をすると、例外を持ち出して得意げなカオをする人がいるが、あくまでも傾向なので。
そういう人が多い、という話である。

あと、大事なことを書き忘れた。
私大は学費が高い。国立は安い。
学費を出すのは親。

「2次元」

「2次元」という言葉を、「アニメや漫画の世界」と言う意味で使う人達がいる。
これは、本当の意味での2次元ではないことに注意しなければならない。

たとえば、アニメのキャラクターのフィギュアつまり人形は立体であるがあれも「2次元」である。
そして、映画やドラマなどでアニメではなく生身の人間が動いているものを撮影したものつまり「実写」したものは、平面のスクリーンに映し出されていても「3次元」扱いなのだ。
おそらく、最近はやっている3Dの映画、あれも彼らに言わせれば「2次元」。

私に言わせれば小説は「1次元」であるが、彼らにとっては小説などは3次元だろう。
とにかく、2次元と言うのは非常に狭い、限定された、自分達でもわかっている異常なゆがんだ絵空事の世界のことである。

膵臓がん

Steve Jobsが亡くなった。
彼のことについて語っている人はたくさんいるが私は彼のことをよく知らないしあまり思い入れもない。
私が話したいのは彼の死因の膵臓がんのことである。私の父は膵臓がんで死んでいて、主にインターネットでいろいろ調べてそれががんの中でも厄介なものであることを知っていたので、Jobsが膵臓がんになったと聞いたときもこれはマズいなと感じ、手術後やせた姿で現れたのを見たときには父の姿と重なって見えた。Jobs氏は2004年に膵臓がんになったということだから7年くらい生存したことになり、膵臓がんにしてはめずらしい例だと言えるだろう。ニュース記事にも書かれていたがやや特殊ながんだったそうである。

彼が亡くなった日、googleの検索後ランキングに「膵臓」という言葉があった。検索してみるとその中にある人の膵臓がんに関する手記があった。それを読み始めると、その人も2004年に膵臓がんの診断を受けた、というところから始まっていた。私はそれを読んで、『この手記を書いた人はもう亡くなっているだろう』と思った。

しかし読みすすめていくと、この人はほぼ間違いなく膵臓がんであろうと診断されても手術を拒否し、セカンドオピニオンでも同様の診断だったがそれも拒否し、手術以外の治療法を求めて病院等を訪ねまわっていた。途中まで読んで、もしかして、と思って手記の最後を見ると、なんとガンが消えて現在も元気だというのである。

手術をして確認したわけではないから本当にガンだったかどうかはわからないが、セカンドオピニオンでも即手術をすすめられるような状況だったというから、おそらくガンだったのであろう。本人もそう書いていた。それを、手術や抗がん剤を使用せずに主に東洋医学の治療によって克服したのである。

私は父が膵臓がんになり入院し手術を受け、腹や鼻などにチューブを入れられ、食事もできずやせ衰え、1年ほどで癌性腹膜炎となって亡くなる一部始終を見ていて、『こんな苦しい思いをするなら手術も抗がん剤も使わずに死んだほうがマシだ』と思った。私は父の病気をきっかけに、それまでもなんとなく嫌いだった医者や医学というものに対して不信感のようなものをおぼえ、一層敬遠するようになった。

医者も仕事である。患者は客で、高額な費用のかかるガンの手術は、もちろん高度な技術を必要とする仕事でもあろうが、おそらくいい商売なのだろう。特に父の場合のように統計的に見て予後不良で末期に近く治癒の見込みがほとんどないような患者であれば、抗がん剤でもなんでも使ってとりあえず生存させればそれは病院や医師の実績となるかっこうのチャンスだから、積極的に手術をすすめるのではないかと思えてならなかった。

最近は医師はがん患者に対してがんを告知するケースがほとんどのようである。それは医療技術が進歩して、手術や抗がん剤、放射線などによる治療ができるようになってきたから、患者も絶望しなくてすむからであろう。しかし、どうも医師というのは比較的末期に近いがん患者やその家族に対し、以下のように告知するのが通例のようになっているようだ。

まず、「腫瘍がみられます。手術してみないとわかりませんが、悪性の可能性が高いです。」と言う。そして手術をした後、「やはり悪性で、予想していたよりも進行していました。ガンは切除しましたが再発のおそれがありますので抗がん剤による治療をします。」そして再発して手の施しようがなくなると、余命宣告となる。

ガンの告知については本人も家族もほとんどの人が希望するようだが、余命宣告となると話は変わってくる。我々は父に余命を告げることはしなかった。2回目の手術をするときも、再発したかどうかさえはっきりとは言われなかった。私ももう、2回目の手術をした頃には絶望的になっていて、術後の医師の説明内容もよくおぼえていない。たしか「出来る限りのことはした」というようなことを言ったとは記憶しているが、開腹はしたものの手の施しようがなかったから何もせずに終えたのではないか、などと母と話したりした事が真相ではないかと思う。

1回目の手術では切除した内臓の一部を見せられ、ここがガンであるという説明も受けたのだがそんなものを見せられても正常な内臓を知らないからよくわからなかった。真っ黒な塊でもあればわかっただろうが、そんなものはなかった。私もさすがに最初の手術で、ガンでもなんでもないのに内臓を取ったとまでは疑っていないが、もしそうされていたとしても私にはわからないのだ、ということはわかった。故意でそんなことをする医師はまずいないだろうが、誤診をしたり、手術でミスをしたりしたことを隠す医師はきっといるだろう。

そんな経験があったので、膵臓がんを克服したという人の手記には驚かされた。しかも患者自身が自分で調べて自分の足で病院をまわって医師の言うことに食い下がったのだ。おそらく自分の身体が死ぬような状態にないことを感じていたのだろう。私の父は楽観的に見えた。手術や治療にも積極的であったが、どこかであきらめていたのではないかとも思える。だが、末期は少し取り乱したと言うかワガママになった。ほんの数ヶ月程度であったが認知症を発症して、介護のようなこともした。悲しさよりも、惨めさの方が強かった。こんな死に方は絶対にイヤだと思った。父の人生そのものは否定しないが、死に様はどう見ても安らかではなかった。苦しんで死んでいった。眠るように死んだのは麻薬のせいである。

人の死に様は他人には見えないから「家族に見守られて静かに息を引き取りました」というのは社交辞令で、もがき苦しんで死んでいる人が多いのかもしれない。私はそういうことを隠すのが礼儀だとか常識だとは思わない。ガンというのはまだ原因も治療法もはっきりわかっていない病気である。手術による切除や抗がん剤や放射線治療だってとりあえずやっているだけである。それを、それしかない手段であると思い込んであきらめてしまうのは、その時の患者や家族などにとっては仕方ないかもしれないが、これからガンになる人、いま闘病している人には手術や抗がん剤による治療の苦しさを伝えて、それをしないという選択もあることを考えてもらうのも必要ではないか?

私がガンになっても治療したくない、というのは、まだそういうことが自分にあるとは本気で思っていないから言えることではあるだろう。実際にガンになってみたらあわてて病院へ行ってすぐに手術してしまうかもしれない。しかし、今回インターネットでみつけたガンを克服した人の手記を読んで、がん治療を拒否するという考えがさらに強くなった。

インド人の首振り

インド人と仕事をしていたことがある。そこでしばらくたってからそういえば、と気づいたことがある。いっしょに仕事をしていた日本人とも「そうだよね?」と確認したことだ。

それは、インド人の首振りの意味である。彼らは、聞かれたことに対して肯定的な話をするときに首を振ることがある。「新しいドライバが出たけどちゃんと動いているか?」と聞くと「yes, it's working.」とニコニコしながら首を振る。私は言葉や表情からそれが肯定の意味であることはすぐに理解して、首を振っているから否定なのか?とは思わなかったのだが、あるとき誰かが彼らはyesの意味で首を振る、という話をしてそういえばそうだと気づき、そういえば中学校の英語の教科書で、yesとnoの首の動きが逆になる民族がある(たしかインド人だった)という話があったのを思い出した。

しかし、私たちが一緒に仕事をしていたインド人達は、noの意味で首を縦に振っていたかときかれるとそれは記憶にない。さすがに「no」と言いながら首を縦に振ったら違和感を感じるだろうから、覚えていないということはそれはなかったのだろう。そして、肯定の意味で首を振るときの振り方も、日本人がするような振り方ではない。日本人が否定の意味で首を振るときには首を軸として顔の向きを、目線と地面が平行な状態を保ったまま左右に動かす。それに対してインド人の肯定時の首振りというのは、顔は正面を向いたまま左右に傾ける、いわゆる「首をかしげる」動作を繰り返すのである。

電話番号の書式

何かの申し込み用紙などで電話番号を記入する欄の真ん中のあたりにカッコが書いてあることが多い。最近はハイフンで市外局番-市内局番-番号となっている場合が多いかもしれないが、手書きのものは圧倒的に「真ん中にカッコ」、つまり市内局番をカッコの中に書く書式が多い。これはなぜだろうか?

インターネットの知恵袋サイトに何件かこのことを質問している人がいたが、「決まった書式はない」などの答えばかりで、「どうして市内局番をカッコ内に書く習慣があるのか」ということを答えている人はいなかった。知恵袋サイトを見ていて、このような歯がゆさはよく感じる。要するに質問者の意図を理解していない。単に電話番号の表記の仕方に悩んでいるのではなく、その書式が通用している理由を知りたいのである。

また、「なんでそんな質問をするのか」「情報が足りなくて答えられない」などのおせっかい回答も多い。そもそも誰が訊ねても答えてもいいのだから答えられなければ答えなければいいし、そんなに答えたいなら質問の意図を推測してやればよいのだ。疑問が発生するのは、わからないことや知らないことがあるからだが、質問者が自分の本当に知らないこと、わからないことの本質を訊ねることはまれである。それがわかっていたら調べるなり自分で考えるなりして答えにたどり着けるからだ。自分の専門分野について素人が質問をしてきたら何がわからないのかも推測できるだろう。教師が学生に自分で考え答えを探し出す力をつけてほしいというような場合でなければ質問のしかたを注意するのはあまりよく思われないだろう。私に言わせれば失礼である。また、今回の電話番号の書式についても、「わかればどうでもいい」というような回答をするのも非常に不可解である。そんなことで満足するならわざわざ質問しないだろうとは考えないのだろうか?また、質問者が、カッコの位置が真ん中である理由を知りたいのだろうと推し量れる人がほとんどいないのも不思議だった。わたしは以前からこの手の知恵袋サイトの内容の不自然さというかレベルの低さが気になっていて、サイトをもりあげるために質問や回答を書き込んでいるサクラのような連中がいるような気がしてならない。

さて肝心の市内局番カッコの書式の理由というか起源であるが、やっと真相らしき情報を見つけた。昔は「銀座1234」「四谷3456」などのように電話局名+番号で表記していたのだが、電話利用者が増加するにともなって「銀座(12)1234」のように表記されるようになった。これは電話局が増加して交換手が名前だけですぐ判断することができなくなり、交換手が名前から番号を探す手間を省くために名前でなく番号で呼んでもらうために電話局の番号を表記するようにしたか、あるいは、同じ電話局内の利用者をグループ分けするようになり、名前だけでは区別できないので局番を表記する必要があったと推測できる。その後、さらに市外局番が利用されるようになったが、(03)(12)1234とするのは冗長で、市内局番にカッコがついているから市外局番をその前に書けばわかる、ということのようである。最初から市外-市内-番号という書式であったのなら、03-1234-5678あるいは(03)1234-5678などの書式になったであろう。しかし番号の桁数は下から追加されていったから、5678→(1234)5678→03(1234)5678 となったのだ。

ワードセンス

録画されていたIPPONなんとかという番組を見た。
これはいわゆる「大喜利」の番組で、あるお題に対してお笑い芸人達がおもしろい答えを出し合うものである。
私が見たのは、さらにそれの特殊なもので、答えを自分で言ったり書いたりするのではなく、あらかじめ用意された言葉がかかれた、マージャン牌を大きくしたようなものを2つ組み合わせるというものであった。
それを見ていて私は最初は物足りなさを感じた。芸人達が自由に自分達で言葉を選ぶのがおもしろいのではないか、と。
番組は1時間ほどだったのだが結局最後まで楽しんで見た。
番組のなかで松本氏が、「なう」という言葉を使って答えを出した後に、「この言葉の使い方をよく知らない」と漏らした。
それを聞いて、彼が今までフリートークなどで、聞いたことはあるが本当の意味を知らずにそれについて語っていたことを思い出した。
私が知っているのは「ドメスティック」と「メランコリー」である。
「ドメスティック」については、たいてい「ドメスティックバイオレンス」として使われるために、松本氏は「ドメスティック」に暴力的な意味があると思い込んでいた。最終的には観客に意味を教わって赤面していた。
「メランコリー」については、どうやら「ロマンチック」のようなうっとりするようないい意味でとらえているようであった。
そういえば、テレビでは何か未知のものについてさも知っているかのようにそれについて語るゲームのようなものがある。
松本氏はそれに近いことをやっていたのかもしれない。
だが、彼がしているのは、その言葉の本当の意味を知らないが故に的外れなことを言う、というような単純なおかしさではない。

ある言葉があり、それが意味していることがあり、それから連想されることがあり、また、それが誤用されたり使い古されたりしていることもすべてひっくるめて、その言葉を聞いた人が抱くものから生まれるおかしさ、違和感、意表をつかれた感じ、そういうものを生み出す能力を彼は持っている。

それは言葉についてもそうだし、常識とか倫理についてもそうである。
彼は一般的に言えば、非常識だったり無知だったりすることがある。先ほどのドメスティックやメランコリーについて知らなかったように。
だが、彼の強みは、言葉や常識に絶対性がないことを知っていることである。それは、たくさんの言葉の辞書的な意味や世間でどのように使われているかを知っていることなどよりもはるかに有力でありまた獲得するのに困難な知識である。
彼が当意即妙なコメントをできるのは、この言葉というものの核心を理解しているからである。
それが、彼自身も言う「ワードセンス」というものなのだろう。

外国語を理解するために必要なこと

久しぶりの海外出張に行って感じたのは、翻訳ツールの充実ぶりである。 誰もがもっているスマートフォンでは無料で使用できる翻訳アプリが使える。 パソコンではgoogle翻訳をはじめとして、これも無料で使える翻訳サイトがたくさんあり、翻訳の精度もずいぶん向上した。 アプリ等...