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「私立文系」はダメ

「私立文系」は一番ラクである、ということは私が大学を受験したときも言われていた。過激な人は「私立文系行く奴なんか男じゃない」と言っていた。20年ほど社会人を経験して、いろんな人たちを見てきたが、確かに「私立文系」はダメだ。なんとなく感じていたことではあるが、最近、ある有名大学出身の人間と仕事をする機会があってそれを確信した。「え!○大の○学部!?」と驚くようなところである。そこ出身の人と直接話したり仕事をしたりするのは初めてのことであった。しかし、その人は仕事があまりできなかった。仕事ができないだけでなく、私はその人に気分を害されることが多かった。そして、最近私が悩まされていた若手二人も私立文系卒であることに気付いた。

何がダメなのか。簡単に言うと、「アタマが悪い」というよりも、「性根が腐っている」。純粋に経済学や法学などを勉強しようと思って私立文系の道を選ぶ高校生などほとんどいないであろう。それも、なんとなくつぶしがきくとかいうかわいいものではなく、一番ラクで得する道として選んでいるのである。勉強や受験というものを、社会に出るために越えなければいけないハードルであると考えている。今では「大学くらい出てないと就職できない」というのはほとんどの人が考えていることで、事実と言ってよいだろう。もちろん、私立文系を選ぶような彼らに一芸に秀でて一発当ててやろうなどという野心はない。越えなければいけないハードルなら一番低い方がいい、という選び方だ。

その姿勢は仕事にもあらわれる。仕事というものも、「生きるために課せられる障碍」のようにみなしている。だから最低限のことしかせず、できるだけ楽をしようとする。彼らは仕事をしていて、「疑問」を示すことが非常に少ない。なぜそれをするのかとか、なぜこういう結果になるのかなどについて考えることをしない。ある物をA地点からB地点に移動する、というようなことしかしない。何のために移動するのか、そもそもなぜA地点にあったのかなどを考えない。とりあえずA地点から移動すればよいときに、移動先を告げないと、「どこに移動すればいいですか」と聞いてくる。それも、単にわからないから質問しているというのではなく、「不十分な指示では仕事ができない」というような不満をこめた聞き方である。(これはたとえではなく、文字通りあるモノを移動したときの話である。)考え方も、行動も、消去法的である。何か言うのは、自分の任務を遂行するのに差し支えることを除去するためだけである。他人にアドバイスなどしない。自分がしたのと同じ事を誰かがやることになれば、自分がした苦労を繰り返さないように注意点やコツなどを教えるのが普通であるが、彼らはそれができない。どうも、そういうことをするのはその人の為にならないと考えているようである。彼らは大学で何を学んだのだろうか?

そうなる原因は、数学をやっていないことであろう。論理的思考力がないとかよりも、困難を避けようとする性格というか性根。さっき書いた「性根が腐っている」ということである。単に勉強が嫌いだったりバカなだけだったら大学などいかないのだが、彼らには人より贅沢をしラクをして生きたいという欲求だけは人一倍ある。これがタチが悪い。

それに対して、やっぱり国立大学の理系を出ている人はすごい。努力家で、話し言葉も書き言葉も丁寧で理路整然としている。「頭がいい」というよりも、とにかく「誠実さ」を感じる。「私大文系」の対極である。



これはあくまでも「そういう傾向がある」という話である。
傾向話をすると、例外を持ち出して得意げなカオをする人がいるが、あくまでも傾向なので。
そういう人が多い、という話である。

あと、大事なことを書き忘れた。
私大は学費が高い。国立は安い。
学費を出すのは親。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。