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2011年10月24日月曜日

首相公選制不要論

私は首相公選制に反対である。

そもそも民主主義自体に否定的な考えなのだが、それはおいておいて、まず、現在だって間接的に首相は国民が選んでいる。
国民が投票して選ばれた議員が、首相を選んでいるのだから。公選制というのは、これを直接国民が投票できるようにするというものである。つまり、民主主義の民主度を上げることである。もっとも民主度の低いのは、独裁政治である。もっとも高いのは、無政府主義である。

国民一人一人の意見がダイレクトに反映することはすばらしいことのように思えるかもしれないが、もし本当にそれがいいことであるなら、そもそもリーダーシップのある議員や首相は必要ない。国民一人一人の意見が尊重されるのだから、議員はその意見をまとめる程度の仕事しか必要ない。そもそも、選挙によって議員が選ばれ、その中から首相が選ばれるというのはどういうことだろうか?それは、より優秀な人間を選んでいるということではないだろうか?そんなことは当たり前だろうか?
国民の大多数は愚かで感情や欲望によって生きているから、その愚かな大衆を率いて指導する優秀なリーダーを選ぶのが選挙である、と考えている人が多く、実際にそうなっているだろう。

だがこれはあくまでも実情がそうなっているだけであって、本来の民主主義の思想とは矛盾するものである。大衆が愚かであるなら優秀なリーダーを選ぶことができないし、大衆が愚かでないなら強力なリーダーシップは必要なく、多数決をとって賛成者と反対者の数を数える事務的な仕事をする人がいればすむはずだ。「永田町の論理」とか「密室政治」と言われるようなものがあるのも、愚かな大衆によって愚かなリーダーが選出されないようにするための努力である。

要は、先ほど言った「民主度」をどれくらい強めるかあるいは弱めるかの話である。大衆が愚か者ばかりの場合は弱めたほうがよいし、皆が賢者であるなら強めたほうがよいだろう。だが、極端な話、国民全員が聖人君子であったら、その場合はもうだれがリーダーになってもよくなり、誰もやりたがらなくなる。小学校の学級委員とか、自治会の役員のようなものである。
首相公選制を願うのは、そういう人が本当にいるのかは知らないが、本当に選ばれるべきリーダーが選ばれていない、と考えているからであろう。「俺達はもっと賢い、議員なんかより日本のリーダーにふさわしい人物を選ぶ目を持っている」と思っているのだ。しかし、本当にそうなら、国民ひとりひとりがリーダーを選ぶ目を持っているなら、逆に誰がリーダーになってもいいのである。われわれが今目にしているリーダー達は、われわれの選んだリーダーなのである。

完全な人などいない。失言もするし、判断ミスもするだろう。それが致命的なものであれば、次の選挙で落ちるまでである。任期途中で交代する手段もある。だが今はそのような民主主義のシステムによる交代ではなく、「世論」の圧力による辞任ということが続いている。首相もしかり、大臣もしかりである。これはどういうことだろう?今の選挙の仕組みでは民意が反映されないのか?どうして多数意見を獲得したはずのリーダーが、あっというまに世論の反感を買ってしまうのだろうか?これは、国民が民主主義のルールを忘れているとしか思えない。民主主義では、「優秀な人が国を治める」「正しい考えの人がリーダーになる」という価値観や判断が、特定の人間がおこなったのでは独裁になるのを防ぐために、多数決にしているのである。つまり、誰が優秀で誰が正しいかなど誰にも決められない、多数の票を獲得した人がリーダーとなる、ということである。そして気をつけなければいけないのは、「多数の票を獲得した人が優秀であり正しい人間であるということにはならない」、ということである。

多数決では、民主主義では、「正しいこと」というものは存在しないのである。「多数が正義」なのではない。「正義は存在しない」のである。それを皆忘れているのではないか。だから、選ばれた人に正義を要求して、それがないので不満を持つのだ。

つまり、悪いのは選ばれた人ではなく、選んでいる我々、世論調査で不満を表明して総理大臣を辞任させている我々なのである。