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電話番号の書式

何かの申し込み用紙などで電話番号を記入する欄の真ん中のあたりにカッコが書いてあることが多い。最近はハイフンで市外局番-市内局番-番号となっている場合が多いかもしれないが、手書きのものは圧倒的に「真ん中にカッコ」、つまり市内局番をカッコの中に書く書式が多い。これはなぜだろうか?

インターネットの知恵袋サイトに何件かこのことを質問している人がいたが、「決まった書式はない」などの答えばかりで、「どうして市内局番をカッコ内に書く習慣があるのか」ということを答えている人はいなかった。知恵袋サイトを見ていて、このような歯がゆさはよく感じる。要するに質問者の意図を理解していない。単に電話番号の表記の仕方に悩んでいるのではなく、その書式が通用している理由を知りたいのである。

また、「なんでそんな質問をするのか」「情報が足りなくて答えられない」などのおせっかい回答も多い。そもそも誰が訊ねても答えてもいいのだから答えられなければ答えなければいいし、そんなに答えたいなら質問の意図を推測してやればよいのだ。疑問が発生するのは、わからないことや知らないことがあるからだが、質問者が自分の本当に知らないこと、わからないことの本質を訊ねることはまれである。それがわかっていたら調べるなり自分で考えるなりして答えにたどり着けるからだ。自分の専門分野について素人が質問をしてきたら何がわからないのかも推測できるだろう。教師が学生に自分で考え答えを探し出す力をつけてほしいというような場合でなければ質問のしかたを注意するのはあまりよく思われないだろう。私に言わせれば失礼である。また、今回の電話番号の書式についても、「わかればどうでもいい」というような回答をするのも非常に不可解である。そんなことで満足するならわざわざ質問しないだろうとは考えないのだろうか?また、質問者が、カッコの位置が真ん中である理由を知りたいのだろうと推し量れる人がほとんどいないのも不思議だった。わたしは以前からこの手の知恵袋サイトの内容の不自然さというかレベルの低さが気になっていて、サイトをもりあげるために質問や回答を書き込んでいるサクラのような連中がいるような気がしてならない。

さて肝心の市内局番カッコの書式の理由というか起源であるが、やっと真相らしき情報を見つけた。昔は「銀座1234」「四谷3456」などのように電話局名+番号で表記していたのだが、電話利用者が増加するにともなって「銀座(12)1234」のように表記されるようになった。これは電話局が増加して交換手が名前だけですぐ判断することができなくなり、交換手が名前から番号を探す手間を省くために名前でなく番号で呼んでもらうために電話局の番号を表記するようにしたか、あるいは、同じ電話局内の利用者をグループ分けするようになり、名前だけでは区別できないので局番を表記する必要があったと推測できる。その後、さらに市外局番が利用されるようになったが、(03)(12)1234とするのは冗長で、市内局番にカッコがついているから市外局番をその前に書けばわかる、ということのようである。最初から市外-市内-番号という書式であったのなら、03-1234-5678あるいは(03)1234-5678などの書式になったであろう。しかし番号の桁数は下から追加されていったから、5678→(1234)5678→03(1234)5678 となったのだ。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。