衝撃的だった事件

私が生きているうちに起きた事件で、ショックだったもの。
思いつくままにあげる

梅川銀行強盗

地下鉄サリン事件

オウムの村井刺殺事件

日航機墜落事故

尾崎豊覚醒剤で逮捕

朴大統領暗殺

911

阪神大震災

・・・


なんかあまりおもしろくない。

いいたかったことは、今年の大震災は「第二の敗戦だ」とかいうくらい、
日本にとって重大な事件と言う人が多いが、
もちろん私もショックだったし人生が変わったと言ってもいいくらいだが、
特筆すべきものではない。

なぜなら、これは自然災害だからだ。
言ってみれば、たまたま起きた、誰も悪くないことだからだ。

戦争とか、殺人とか、テロとかは、人間の欲や業が惹き起こすものだ。

でも、地震は違う。
天罰だとか、人々の深層心理が惹き起こしたとか言う話を聞いて、
私もそうだよなーなんて思うことはあるけど、
みんなそんなことは信じない。

それなのに、なんだか、極端な話、今回の震災に酔っているような人を見かける。
私はそういう人を、すごく軽蔑する。

あたかも東京電力が地震を起こしたかのような、
菅直人が原発を破壊したかのような、
民主党が日本を滅ぼすために仕組んだかのような、
だれかに責任を負わせないと気がすまないのだろうか?

原罪なんてものは信じないくせに、誰かを悪者にしないと気がすまないのだろうか?


ソケイ部の付近が痛む


不調が続く。腹部の右下の方、ソケイ部まではいかない、そのちょっと上あたりが、軽く常時痛い。疼痛かな。ここには何があるのだろう?胃って確か左から右に位置していて、右下で腸につながっていると思ったんだけど、違うかな。

そして腰痛というか背部痛。これはもうかなり長い間、酒を飲みすぎたりすると襲われる痛みというかだるさというか、熱さというか、それらが混在したもの。

twitterは換気扇、2ちゃんねるは便所

私はtwitterと2ちゃんねるを両方使っていて、読み書きしている。twitterはほぼ毎日書き込んでいる。twitterをやる前は2ちゃんねるにほぼ毎日書き込んでいた。

わたしはtwitterをSNSだとはみなしていない。mixiとかfacebookよりは2ちゃんねるっぽいサービスである。twitterにはSNSのようなリキみがない。そのリキみのなさが2ちゃんねると似たところだ。

だが、twitterと2ちゃんねるは、全く違う。twitterとfacebookが違うのとは比較にならないくらい、全く異質である。

それを表現したのが、「twitterは換気扇、2ちゃんねるは便所」という言葉である。我ながら的確な喩えだと感心している。

私の生活があって、思うことがあって、過去の思い出とか将来の不安とか、日常生活で感じるちょっとした怒り、疑問、笑い話、愚痴、ため息、感動、詠嘆、そういうものを表現したい欲求がある。

twitterと2ちゃんねるに書き込むことはともにそういうものなのだが、2ちゃんねるは罵詈雑言になってしまう。

これは匿名か否かということによるのかもしれない。

よく、インターネットが匿名であることをとやかく言われ、なかには匿名では利用できなくすべきだなんて人もいるが、そんな単純な話ではない。

まず、「匿名だと暴言を吐くけど名前を出すとおとなしくなる」ということは人として最低である。本当は匿名でも暴言を吐かないようにすべきである。その暴言が単にその人が品性下劣なのか、それともその人が所属する会社がひどいのか、あるいは国家がひどいのか、その不満を普段いえないから匿名で噴出させているのか、いずれにしても何かしらの問題を解決できていないということである。

匿名にするかどうかは、本人次第で、2チャンネルにもトリップという機能があるのだが2ちゃんねるで身分を明かす人はまずいない。トリップを使う人がいても、同一人物であるという証明としてしか使われない。

逆にtwitterは本名を明かさなくても使えるのに、なぜか顔と名前を明かす人が多い。

このことが、「匿名か否か」が問題でないことを証明している。
2ちゃんねるは、匿名でないと使えないようなサービスであり、
twitterは本名を明かしたくなり明かしても問題の起こりにくいサービスなのである。
発言が匿名か本名なのかは結果である。
だから、本名を使うことを義務づけてもムダなのである。


「twitterが換気扇」というのには、自分が発言するということよりも、他人の発言が聞ける、ということを言っている。
2ちゃんねるで入ってくる情報は、汚いものが多い。
人はトイレで汚物を排泄する。それは必要なことであるが、その場所と日常生活の場所は遮断して汚物が見えず匂いもしないようにする。

換気扇と言うのは、一般的には煙などを排出する装置であるが、それと同時に外気を取り込むものでもある。

私は自分の主に精神的なよどみを2ちゃんねるで排出するが、その時にそれと同等かそれ以上の他人のよどみを取得してしまう。

twitterでは、よどみを排出するよりも他人の生活を垣間見ることによって新鮮な空気を取り込む作用の方が大きいのである。

twitterで気に食わないこと

「自分のtweetのまとめをブログなどに載せてそのリンクをtweetする。」

 なんでこんなことをするんでしょうか。まとめて読みたくなれば方法はいくらでもある。 自分のツイートを読んでない人に知らせるなら意味があるだろうが、followerにしか伝わらないんだから。


 「まとまった内容を連続ツイートする」

 言いたいことがあって自然にそうなったのならいいが、どこかでまとめたような内容を一気にドカンとツイートする人。 番号なんか付けたりする人もいる。 話が長くなる時は別の場所に書いてリンクをツイートしなさい。


 「followされたらfollowし返す。」

これはヘタをするとマナーみたいに考えられているかもしれない。 私も最初は返していたが、いまでは全くしなくなって、むしろし返されると腹が立つ。 「followありがとうございます、よろしくお願いします」 なんてのもイヤだ。不要。 followという行為は全く一方的なものであり、アカウントを作って参加している以上、 誰からのfollowも、followされないことも受け入れるべきである。

エレベータでのマナー

あるタレントがエレベータのマナーについてブログに書いたことがちょっと話題になった。 その人はエレベータを降りるときにお先にどうぞとうながす行為に否定的な意見を述べた。 要はそんなのはおせっかいだ、というような話である。 ここでは彼の意見が正しいか、彼を先に降ろした若者が正しいかを議論するつもりはない。 それをやろうとしてえらいことになって、マナーに対する考え方の違いを目の当たりにした。 私もこのタレントと同様に、エレベーターのマナーというものは行き過ぎているというか、過剰に感じている。

続・銀行

どうしても窓口でキャッシュカードの再発行をしたくないので、コールセンターに電話してみた。土曜日の朝9時。けっこう酔っていた。不機嫌であった。一番ききたかったことは、「一人で複数口座が開設できる例外とはどんな場合か」ということで、その一つは、会社から給与振込用の口座を指定された場合だった。私の場合はおそらくダメでしょう、とのことだった。私は悪態をついて電話を切った。

その銀行のWEBサイトを見ていたら、キャッシュカード紛失時の再発行手続きのところに、「来店せずに発行できる場合がある」との記載があったので、もう一度電話してみた。しかし、住所変更で来店が必要なのでダメであった。私はさらにもう一度電話して、テレビ窓口で紛失したカードの再発行手続きができないのかをもう一度確認した。できないとの回答であった。
そもそも複数口座がもてない理由は、不正行為に利用されることを防ぐためとのことだった。不正行為のひとつとしてあげたのが転売であった。私は「転売ができないように本人確認を厳密にすればよいではないか」との意見を述べた。そして、その時にひらめいた。住所変更の手続きが必要ということは、変更手続きをしていなければ、新しい住所の免許証を使えばすでに口座を開設している自分かどうかの確認はできないから新しく口座が持てるということだ。私はコールセンターの担当者に、「・・・という抜け道があるね?」と教えてやった。そんなことはわかっていることかもしれないが。

そして私は電話を切って近所のテレビ窓口へ行って口座を作った。最初に、「暴力団ではないですね?」という確認をさせられた。しかし自己申告なので、全く意味がない。私はその無意味さに頭にきて文句を言ってやった。ひどく不機嫌な思いをして口座を開設した。どうして私は銀行に対してこんなに腹が立つのか、自分でも不思議である。

ある転職

私は最近転職をした。正確には「転職」ではないのだが、勤務する場所と仕事が変わったので一般的には「転職」と言われることである。その理由は職場での人間関係のトラブルである。私はどうしても我慢できないことがあって、これは職場を変える以外に解決方法はないと判断して実行した。だが、そのトラブルというものは、傍目からみたら何がトラブルなのかもわからないようなことである。実際、職場の責任者の人は私に何があったのかを理解できていないようだった。ただし、わかりにくいとはいっても決して「些細なこと」ではなかった。

そのトラブルは何かというと、簡単に言えば同じ仕事を遂行するある者との意思疎通ができなくなったのである。それは、一般にいう後輩である。これまた正確には後輩ではないのだが、同じ職場で同じ業務を遂行する自分よりも若いメンバーであり、一般的にそれを「後輩」と呼ぶのでこの言葉を使う。私はその後輩のA君の仕事の仕方が以前から気に入らなかった。非常に消極的で個性のないつまらない人間だった。自分の意見や疑問を一切表明することがなく、判断も人に仰ぐ。まだ若いし性格は簡単に変わらないからと私はひとつずつ具体的なことをアドバイスしていた。しかし彼はそのアドバイスを「指示」と受け取っているようだった。私が何か言うと無表情で「ハイわかりました」と言ってそれを淡々とこなすのである。彼は仕事をしていて驚いたり喜んだりすることがない。ただただ、流れてくるものを受け流すようなことしかしない。ちょっとしたミスをするとすぐに「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」と言う。言うといっても口ではなくメールに書くのだが。しかし私は彼がまったく「申し訳ない」気持ちなどない事はわかっていた。ただ批難をさけたいがためだけの、道具としての詫び文句なのである。

彼と一緒に仕事をして1年ほど経った頃、私は彼があまりに成長しないので、少し説教のようなことをし始めた。説教とは、具体的な方法の説明とかアドバイスではなく、仕事をするにあたっての心がけのようなことを説くことである。しかし彼はその説教すら「指示」として受け取ってしまう。「もっと積極的に自主的に動け」というようなことを言うと「ハイわかりました」と言うのである。この「わかりました」も、「申し訳ございません」と同様、単に説教をさけるがための道具としてのフレーズにすぎない。まあ、「ちゃんとやれ」と言ってちゃんとやれるくらいなら苦労はないし、先輩としても手本を示すなり具体的なアドバイスをするべきだから、手を変え品を変え、彼に足りないことと身につけるべきことを気付かせようとした。

だがそれから1年程たっても彼は全く変わらなかった。その頃になると私の中にある疑惑が生まれた。「彼はもしかして、現状の自分に満足し不足がないと考えているのではないか?」と。そこで私は、少し強めに、やや感情的に彼に接し始めた。それは意図したことであったが、半分くらいは本当に不快だったのである。だがそれは逆効果であった。感情的に接すると彼は一層自分を閉ざし、今まで以上に消極的に無気力になっていき、しまいにはそれまでは形式的にではあれ表現していた「申し訳ございません」や「わかりました」すら言わなくなったのである。わかりやすく言うと私を無視し始めたのだ。

ここで、私はあきらめた。そもそも、私は彼の上司でも先輩でもないのである。彼はある会社の社員であるが私は違う。業務を遂行する上でのパートナーに過ぎない。だから、私には彼を育てて有能な人間にすることにメリットはない。しかし、私と彼は同じ会社に所属するものとして、顧客先に常駐してサービスを提供している。そのサービスの質が低ければわたしは職を失うから、それは避けねばならない。そうなるとやはり彼を「教育」する必要がある。だがそれまでの私の苦労とそれがムダに終わったことを振り返って、むなしさを感じ始めた。一体私はどうしてこんな緊張と苦労を背負ってまで彼と仕事をしなければならないのか。

実は、私とA君はその顧客を失いかけたことがある。ある日彼がニコニコしながら契約が翌月までで終了することを告げてきたのだ。見たこともないような笑顔であった。だがよく聞くとその契約終了は彼だけなのか会社としてなのかが不明だった。そして確認させると終了するのは彼だけとのことだった。だが、そこで彼の会社の上司であり営業担当でもある者が、二人一緒に職場を移ることを提案してきた。私にとってその会社は顧客のようなものであるから、彼の希望をむげに拒否することもできないのでそれを受け入れた。するとその後、常駐先の会社との契約が続行することになった。要するに、私がいなくなっては困るから調整してもらったのである。その代わりに別の会社のメンバーの契約が切れた。

それからまた1年が経った。顧客の業績もあまり思わしくないようで仕事が減っていき、職場も毎日静まり返っていた。私は去年のことを思い出し、このままでは契約が終わるのではないかという不安に襲われた。A君との関係も変わらず、私の心理状態は最悪になった。そしてとうとう、私はA君の仕事の仕方について批判とその改善要求をメールで文書として上司をCCに入れて送りつけた。さすがにここまですれば無視はできない。彼の上司がすぐにやってきた。A君は私には直接何も言わず、上司を介して私のA君に対する要求に応じるつもりはないということを告げてきた。彼の上司は彼をほかの社員に交代させてもいいと言ってきたが私は断った。そこでもう、この会社を相手にやっていくことは無理だと思った。

私はその会社との契約を継続しない旨を告げた。彼の上司はA君を交代させるから継続して欲しいと言ってきたが私はA君が理由ではないと言って断った。A君の会社の顧客も驚いたようであったがあくまでも契約上は何も問題がないので当然わたしの希望通りとなった。私は転職するにあたって、A君にもA君の会社にもその顧客である常駐先の会社にも一切おわびするような事はいわなかった。ごく簡単に世話になった礼を言ったのみである。

転職を決意してから新しい職場で仕事をしている今も、ずっと精神状態は最悪である。酒量が増え、酒の力で無理やり寝てはいるがすぐに目が覚めて体調も最悪である。今でも前の職場のことがなかなか頭から離れない。私は転職すればきっと状況が改善すると思ったが、それよりも今まで無駄な苦労をしてきたことの後悔がいつまでも晴れない。やめたのは正しかったと言うかやめざるを得なかったのでそのこと自体に後悔はないが、それまでずっと妥協していたことについては激しく後悔している。


こうなった原因は私にもあるだろう。A君に対して感じる不満は、私自身にも思い当たるものである。
おそらく、A君は私を見て私のようになり、私はそんなA君を通して自分の欠点を痛感して耐えられなくなったのだ。

ちなみに、A君というのは女性である。
そして私はここまで関係がこじれた要因のひとつが彼が女性だった事なのは間違いないと思っている。

「・・・かと」

「・・・かと。」

という表現を見ることがある。

ただし、インターネットやメールなどに限る。新聞や書物にはまず出てこない。というか見たことがない。

さっき書いた「Aではないかと思います」を「Aではない」と受け取った人は、
この「・・・かと。」のような表現だと理解したのだろう。
やっぱりバカだ。

私はこの「・・・かと。」という表現が大嫌いで、一度も使ったことはない。
「アホかと」は別として。

なんで嫌いなのかというと、

リテラシー

私が以前仕事をしていた有名企業の人。
その人はいい人なのだが、バカだった。

特に、人の話やメールを理解する能力が低かった。
私が呆れたのは、私が書いたメールの「Aではないかと思います」という文章を、「Aではない」と理解したことである。
もちろん、私が言いたかったのは「おそらくAである」ということである。

確かに、「ないかと思う」という表現は回りくどいと言うか、ビジネスでは好ましくない言い回しかもしれないが、
だからといってこの表現を否定だと受け取るのはどうかしている。

もちろんわたしはその一文の後に、それが「Aである」と考える根拠をずらずらと書いたのである。
彼はそれを読まず、最初の「Aではないかと思います」を読んだだけで、「Aじゃないのね、ハイわかった。」
で終わってしまったのだ。

その人はメールを読まない人であった。
せっかくメールで書いたことも、ミーティングで全く同じ内容を復唱するようなことを何度もさせられた。
「忙しくて読めない」というのが理由のようであったが、捕まえて話をすることはもっと難しかった。

多分その人は小説なんか読まないだろうし、新聞も読んでいないだろう。
ITリテラシーとか、英語だとか、ビジネスマナーだとかの以前のハナシだ。

こんな日本語も読めない人は、その上に何も身につかないだろう。
その人は課長になる試験に何度も落ちて、結局一生課長になれないことになったそうだ。
当然だ。

私はその企業のことが仕事をする前から大嫌いだったのだが、内部事情を知って憎悪するまでになった。
なかなかつぶれないが、もう腐って溶けてしまいカタチがなくなってしまっているのかもしれない。

経済学に対する懐疑

経済学者もしくは経済学出身者、金融業界の人間はよく「そんなのは経済学の基礎だ」というような事を言う。
経済学を知らないから失敗するとか、ダメなのだとか言って、政治家や経営者そして経済学者までもを批判する。

しかし、そんな基本的なことを知らずに経済学部を卒業できてしまい、経済や経済学を生業として生きてしまっていけるというのは、経済学の欠陥なのではないだろうか?経済学は学として成り立っていないのではないだろうか?

実際、「経済学なんて・・・」と経済学を自嘲する発言を、経済学者から聞いたことがある。

「地震学者が地震をふせげないように経済学者も不況を防げない」とか。

じゃあ黙ってろよ、と。

しこりその後

右ももにしこりが見つかってもうすぐ一年になる。
しこりはその後特に大きくなることもなく、体調もあまりよくはないが特にわずらうこともなく、
激動の2011年を終えようとしている。

しかし、ほのかに右ももに痛みがある。
ずっと、しこりが痛いのだと思っていたが、最近気付いた。
その痛みは、しこりのあるやや上にあることを。
しこりが痛んでいるのではないのだ。

痛いといっても、たいしたものではない。かゆいのが酷くなった程度である。
しかし、イライラする。

わたしはいっそこのしこりが体中にできて死んでしまいたいとか思うのだが・・・・

松本人志の映画

11/5、NHK BSプレミアムで「松本人志大文化祭」という番組があって、ほぼ全部見た。私はダウンタウンが大好きで、彼らが出る番組はほとんど見てきた。そして今回、彼が撮った最初の映画である「大日本人」も放送された。今回の「文化祭」で、私が一番見たかったものは「大日本人」であった。私はもちろん彼が発表した3本の作品は全部映画館で観ている。私は3本とも楽しんだが、映画監督としての松本人志の評価は今ひとつのようである。

「大日本人」は、その映像を思い出しただけで楽しくなるというか、ワクワクするものがある。この作品は彼の感覚が素直に表現されていた。だが、2作目以降はどうも考えすぎと言うか狙いすぎというか、感覚でなく考えて作ったという印象がある。考えすぎというのは、「大日本人」にもないことはない。テレビのバラエティ、マンガ、ゲーム的な構成をひきずっていて、映画として見るには興ざめなところがある。

私はおもしろいものを見たいのであり、いい映画を見たいのではないが、でも、映画である必要がないものを映画にすることはやはりよくない。松本氏は、大日本人を作るときに「映画を撮りたい」という思いが強すぎたのではないだろうか。なにか表現したいものがあって、それには映画がふさわしかったから映画を撮った、というのではなく、「お笑いで成功したから映画もやってみたい、映画に挑戦したい」という動機で撮ったのではないか。

「それはすばらしい事じゃないか、それの何が悪いのか?」と言われるかもしれないが、私はその動機は間違っていると思う。よく比較される北野監督の作品も私は好きで全部見ているが、北野氏は映画では映画でしかできないものを撮っている。松本氏は、テレビでやったことを映画にアレンジしたようなところがある。

「さや侍」は、3本の中で一番映画らしかった。が、松本らしさがなかった。評価が今ひとつだった2作品の反省からかわかりやすいストーリーや感動を前面に出す映画にして、松本氏本人も「好評だった」と言っていた。わたしは映画館で「さや侍」を見て楽しんだことは楽しんだが、何か居心地の悪さというか気持ち悪さを感じた。その前の2作品は映画館で3回ずつ見たのだが、「さや侍」は1回しか見なかった。

松本氏は「オチ」にこだわり過ぎではないだろうか?「笑い」というのはオチで生まれるものではない。漫才のオチも、落語のさげも、単に形式的に終わらせるだけで、笑いのピークはその前にある。だからオチやサゲはちょっと棒読み風にさらっとやるのが普通である。ときどき、どんでん返しのような、凝ったオチの漫才を見ることがあるが、そういう漫才はその場では沸いても後になるとあまり面白くなく、また見たいとも思わない。

私は漫才とかコントも好きで、5分前後の短い「ネタ」を動画としてPCに保存して何度も繰り返し見ているものが何本かあるが、すべて「オチ」などたいしたものではない。というか、どれも「オチがイマイチだな」と感じるものばかりだ。しかし、最近思い始めたのは、傑作なのにオチが弱いのではなく、オチが強すぎないから傑作なのではないか、ということである。オチとか、起承転結などというものは形式にすぎず、ある程度のカタチがあればよいのであって、形式ばかりにこだわって、その複雑さとか意外さが前面にだされると、興ざめするのである。

おもしろいネタというのは大体その状況とか登場人物の個性(いわゆるキャラ)がおもしろい。雰囲気とか空気といってもよい。それが確立されれば、何を言っても面白くなる。形式はそういう世界を築くための手段にすぎず、形式=世界なのではない。おそらく、松本氏はそれをわかっていて、それをやってきた人だ。しかし、映画ではそれに失敗し、形式におぼれている。それは、やっぱり本業ではないからだ。テレビや舞台で成功したことを映画でやろうとしているからだ。

北野氏が映画を撮り出した頃はあまりテレビで面白くなくなった頃だった。トーク番組とか司会者とか、自身もあまりテレビの仕事に情熱を感じなくなっていたのではないだろうか。しかし松本氏はいまだにテレビ界で生き生きと活動していて全盛期と言ってもいい。映画なんかやる必要がない。今のところ彼が表現したいことに最も適しているのはテレなのだ。そしてそれでいいのである。

銀行

仕事の都合である銀行の口座が必要になった。振込は異なる銀行間だと手数料が高いので、振込み元の銀行と同じ銀行の口座が必要なのだ。必要といってもどうしてもというわけではないのだが、銀行口座などすぐ作れるものだから、わざわざ違う銀行を使うのも気が引ける。

実は私はその銀行の口座を持っている。しかし、キャッシュカードを紛失し、再発行手続きをしていない。一度手続きしに行ったのだが窓口が非常に混んでいて、確か2時間くらい待つと言われてあきれて帰って、それ以来その銀行の口座は使っていなかった。

やはりキャッシュカードの再発行をしよう、と思ったのだが郵送では手続きできず店頭窓口で手続きする必要がある。しかし銀行の店頭窓口は平日の9:00から15:00までしか開いていない。そして何をするにも待たされる。銀行の窓口でする手続きなどたいしたものではないのだが、必ず待たされる。しかし一体あんなに大勢の客が窓口で何をしているのだろうか?振込み、入出金、納税など、窓口でないとできないことなどほとんどない。

私は銀行の窓口に行くのが大嫌いだ。今は銀行窓口でないと支払えないものなどまずないので行くことはないが、以前はコンビニでは支払えないものがけっこうあって、出勤前などに銀行に寄る事があった。わざわざ休むほどのことでもないから出勤前とか、昼休みとかに行くのである。しかしそういう時は銀行もバカみたいに混んでいて、バカみたいに待たされるのである。コンビニなら一瞬で終わる手続きなのに。私はもう、銀行の窓口に行くことに恐怖さえ感じている。

そこで、思いついた。新規口座開設であれば、郵送で手続きできる。これだ、と思ったら「お一人一口座にしてください」とある。「お断りする場合があります」とあるので絶対に駄目なわけではないようである。これまた面倒くさい。駄目なら駄目と言われればあきらめるのに。こういうところも銀行の嫌なところだ。申し込みして断られたり事情を説明するのも面倒だ。やっぱり窓口に行かないと駄目か・・・でも口座を持っている支店に行かないと駄目か・・・そういえば、以前引っ越すので支店を変えたいと行ったら面倒な手続きが必要であきらめたことがあった。その時に銀行員から口座がなくなることは客を失うことなのでできれば継続して欲しい、と頼まれたような記憶がある。

などということをしばらく考えて、最近静まっていた日本の銀行に対する不満や怒りがまたこみ上げてきた。ちなみにその銀行は合併したことにより3つの銀行名がくっついた名前になっている銀行である。往生際が悪いというか・・・。「さくら銀行」みたいに思い切って新しい名前を付ければいいのに・・・

国民皆保険と有給休暇

安月給で、風呂なしのアパートに住み、370円くらいのから揚げ弁当がごちそうだった頃の話。

滞納した何かの税金を払いに行った時のこと。

私は健康で病院などまず行かないので、健康保険の掛け金を払いたくないので脱退できないのか、
みたいなことを区役所か何かの窓口で尋ねたことがある。

その時初めて、健康保険の加入は会社員であろうとフリーターであろうと無職であろうと義務付けられていることを知った。

だが、それは「国民皆保険制度」というひとつの制度であり、日本がそれを採用しているにすぎない。
リスクの低い制度ではあろうが、健康な人にとっては損な制度である。

ちなみにこれは「こくみんかいほけんせいど」と読む。
だが、「こくみんみなほけん」という意味である。「人類皆兄弟」を「じんるいかいきょうだい」とは読まない。


同様な制度に、会社員の有給休暇がある。
有給休暇がとれることはメリットだと考えているバカサラリーマンが多いであろうが、
考えてみればそんなことができるのは自分が休んでいる時にだれかが働いているからであり、
逆に言えば、自分が稼いでいるカネの一部は、誰かが休んでいても受け取る給料の支払にあてられているのである。

健康保険であれば、全員加入の義務はしかたないと納得もできるが、
有給休暇などというものについては全くナンセンスである。

労働基準法で定められているらしいが、こんなものを義務化したって、それを前提に給料を決めるのだから無意味である。

ある労働者が1年に240日働くとする。
年俸480万円なら1日あたり2万円である。
この労働者に有給休暇が10日あたえられたとしたら、労働者は「今日は働かなくても2万円もらえる」と喜ぶ。
しかしそうではなくて彼は日給に換算するなら1日20869円程であり、休んだらそれを失うのである。
というか、休んでも休まなくても彼の手にする給与は変わらないのである。

全く無意味である。

ボーナスも同様である。最初から支給することは決まっていて、それを前提に月給を逆算しているのにすぎない。
メリットがあるとしたら、社員全員のボーナス支払分のカネをストックして運用したり利息がついたりする程度であろうが、
そんなものは微々たるものだ。

アホらしい。

社説

TPPに関してのエントリーはなんだかまともな話になってしまった。
私が言いたかったのはそんなことではなかった。

TPPと、もうひとつ話題になっているのは「ギリシャの国民投票」のことである。
だが、一体何について投票するのかがよくわからない。
支援策を受け入れるかどうかなのか、首相を信任するかどうかなのか、
名言していないが実質的に首相信任の投票なのか、「そんなに文句言うならオマエラが決めろ、俺は責任をとらない」
ということなのか・・・

これについてもいろんな人が冷ややかに論じている。
やはり、「・・・なのは当たり前」「・・・何をやってるのか(笑)」という調子である。
私は、このことについてもよくわからない。正直言ってどうでもいい。

今朝(11/4)は日経の社説を読んだ。普段は社説など読まないが、今日はなんとなく読んでみた。
そこに国民投票をすることについて否定的な意見が述べられていた。
だが、私はそれを読んでもやはり「部外者の無責任な意見」にすぎないと思った。
twitterや2ちゃんねるなどでのつぶやきと全く同じであると。

そもそも「社説」というのは誰の意見なのか。日経新聞の社長の意見なのか。
日経新聞社の社員の総意なのか。それとも単なる社説担当の個人的な意見なのか。
それがはっきりしていないだけでも、ズルいし、無意味だ。

私は毎朝日経新聞をながめて、その情報の洪水に圧倒される。
「情報の洪水」はインターネットなど見なくても、日経新聞だけでも十分である。
あんな情報を毎朝すべてインプットしている人などいるのだろうか?

TPPにまつわるエトセトラ

私がよく(インターネット上で)知っている仲の悪い二人の大学教授がいる。犬猿の仲で、見た目も犬と猿のようである。この二人は以前から主張することが食い違って、特に犬のほうが猿に噛み付くことがよくある。今は日本がTPPに参加するかどうかで二人の意見はわかれている。

TPPに関してはこの二人だけでなく、私がブログを読んだりtwitterでフォローしている人の間でもしばしば触れられる。私はTPPのことはよくわからないしどうでもいいと思っているが、最近いろんな人がそれについて語っているのを読む機会があって、思うところがあったので記しておく。

「重商主義」「比較優位」「分業」「開国」「自由貿易」「ブロック経済」・・・こんな言葉がキーワードである。TPPに反対しているのは「アメリカの言いなりにはならない」という考え、わかりやすくいうとサヨクの人々である。元サヨクの犬先生は自分がサヨクでないことをアピールしたくてたまらない人なので、いまだにサヨクの猿先生を叩くことでそれをおこなっている。

TPPに賛成している、というか、「反対している人を批判している」人々に見られる共通の姿勢は「こんなことは議論するまでもない当たり前のことだ」というものである。「自由に競争させれば均衡する」という、経済学者がいつも言う原理である。

私は経済学を知らないし興味もない。しかし今までの経験と見聞から判断するに、「自由競争」などというものはプラトンの言う「哲人政治」と同じような実現することなど到底あり得ない理想にすぎない。TPPにしたって、その加盟国同士だけでみれば自由貿易であるが参加しない国からみれば閉じた世界である。そして犬先生ですら、「中国が参加していないことが不安要素だ」というTPP反対論は検討に値すると言っている。

TPPに賛成するか反対するかの分かれ目は「比較優位」とかの経済学の知識を理解しているかどうかではなく、自由は理想だが完全な自由はありえないという現実を踏まえて、どういうくくりで暫定的な限定的な自由を実現するか、というそのくくり方で意見が衝突しているのである。

そして、ここからが私の言いたいことである。私の本領発揮である。TPPに日本が参加することはアメリカからの要請があるからだという前提で話す。その真偽は定かではないが、多分事実だろう。TPPの議論とは、「アメリカ論」なのである。

アメリカはなぜ「世界の警察」となっているのか。なぜソ連、キューバ、イラク、北朝鮮などに敵対してきたのか。なぜ日本を占領し、軍隊を駐留させているのか。アメリカは世界征服をたくらむ悪魔の帝国なのか?否。アメリカは神の国なのである。アメリカが闘い続けてきた相手はすべて閉じた国、自由に敵対する独裁者である。

アメリカは地球上で唯一の神の名の下に築かれた人口国家である。人口国家というのは共産主義国とアメリカしかない。日本とかその他の地理や民族上の都合でなんとなく発生した国とは全く別モノなのである。「アメリカ人」を絵に描くことは不可能である。白人も黒人も黄色人種もいるからである。

TPPに反対する猿先生は「国益」という言葉を使った。これこそアメリカの憎むものである。アメリカは自国の国益など求めていないのである。イラク戦争を起こしたのは原油利権のためなどでは絶対にない。

「アメリカは自由のために闘う神の国」というのがあまりに美化されすぎだというのなら、あくまでもわかりやすくするための仮定での話だが、「世界の国々のバランスを考慮して」という理由だと考えてもらってもいい。同盟とか連合というものの恩恵は、先ほども述べたようにその参加国だけが受けるのであり外れた国々は敵対する。理想は世界連合である。地球上のすべての国々が連合し、ひとつの国となり、「世界は一家人類は皆兄弟」となることである。それが理想であることは誰もが合意してくれるだろう(そして、それが到底不可能であることも)。

TPP参加の是非で議論している人たちは「国益」を理由に論じるから紛糾するのである。賛成するのも反対するのも、本当は国益のためなどではないのだ。「自由貿易にすると日本の農業が壊滅するなどと言われているがそんなことはなく結果として日本の為になる」などというのは嘘である。TPP参加は日本のためではない。参加国すべてのためである。そして恐れるべきことは参加しなかった国が被る不利益、そしてそれが鬱積することによる暴徒化である。

アメリカはそういう「暴徒化したハズレ者」にずっと手を焼いているのである。もうコリゴリなのである。

カツカレー

大坂なおみがセリーナウィリアムズを破って優勝した時のインタビューで「カツカレーが食べたい」というのを聞いてから、食べたくなった。 最近はカレーライス自体をほとんど食べることがなかった。 さらにそれにカツが入っているとなると重すぎる。 体調がよく空腹のときに何回か食べ...