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ある転職

私は最近転職をした。正確には「転職」ではないのだが、勤務する場所と仕事が変わったので一般的には「転職」と言われることである。その理由は職場での人間関係のトラブルである。私はどうしても我慢できないことがあって、これは職場を変える以外に解決方法はないと判断して実行した。だが、そのトラブルというものは、傍目からみたら何がトラブルなのかもわからないようなことである。実際、職場の責任者の人は私に何があったのかを理解できていないようだった。ただし、わかりにくいとはいっても決して「些細なこと」ではなかった。

そのトラブルは何かというと、簡単に言えば同じ仕事を遂行するある者との意思疎通ができなくなったのである。それは、一般にいう後輩である。これまた正確には後輩ではないのだが、同じ職場で同じ業務を遂行する自分よりも若いメンバーであり、一般的にそれを「後輩」と呼ぶのでこの言葉を使う。私はその後輩のA君の仕事の仕方が以前から気に入らなかった。非常に消極的で個性のないつまらない人間だった。自分の意見や疑問を一切表明することがなく、判断も人に仰ぐ。まだ若いし性格は簡単に変わらないからと私はひとつずつ具体的なことをアドバイスしていた。しかし彼はそのアドバイスを「指示」と受け取っているようだった。私が何か言うと無表情で「ハイわかりました」と言ってそれを淡々とこなすのである。彼は仕事をしていて驚いたり喜んだりすることがない。ただただ、流れてくるものを受け流すようなことしかしない。ちょっとしたミスをするとすぐに「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」と言う。言うといっても口ではなくメールに書くのだが。しかし私は彼がまったく「申し訳ない」気持ちなどない事はわかっていた。ただ批難をさけたいがためだけの、道具としての詫び文句なのである。

彼と一緒に仕事をして1年ほど経った頃、私は彼があまりに成長しないので、少し説教のようなことをし始めた。説教とは、具体的な方法の説明とかアドバイスではなく、仕事をするにあたっての心がけのようなことを説くことである。しかし彼はその説教すら「指示」として受け取ってしまう。「もっと積極的に自主的に動け」というようなことを言うと「ハイわかりました」と言うのである。この「わかりました」も、「申し訳ございません」と同様、単に説教をさけるがための道具としてのフレーズにすぎない。まあ、「ちゃんとやれ」と言ってちゃんとやれるくらいなら苦労はないし、先輩としても手本を示すなり具体的なアドバイスをするべきだから、手を変え品を変え、彼に足りないことと身につけるべきことを気付かせようとした。

だがそれから1年程たっても彼は全く変わらなかった。その頃になると私の中にある疑惑が生まれた。「彼はもしかして、現状の自分に満足し不足がないと考えているのではないか?」と。そこで私は、少し強めに、やや感情的に彼に接し始めた。それは意図したことであったが、半分くらいは本当に不快だったのである。だがそれは逆効果であった。感情的に接すると彼は一層自分を閉ざし、今まで以上に消極的に無気力になっていき、しまいにはそれまでは形式的にではあれ表現していた「申し訳ございません」や「わかりました」すら言わなくなったのである。わかりやすく言うと私を無視し始めたのだ。

ここで、私はあきらめた。そもそも、私は彼の上司でも先輩でもないのである。彼はある会社の社員であるが私は違う。業務を遂行する上でのパートナーに過ぎない。だから、私には彼を育てて有能な人間にすることにメリットはない。しかし、私と彼は同じ会社に所属するものとして、顧客先に常駐してサービスを提供している。そのサービスの質が低ければわたしは職を失うから、それは避けねばならない。そうなるとやはり彼を「教育」する必要がある。だがそれまでの私の苦労とそれがムダに終わったことを振り返って、むなしさを感じ始めた。一体私はどうしてこんな緊張と苦労を背負ってまで彼と仕事をしなければならないのか。

実は、私とA君はその顧客を失いかけたことがある。ある日彼がニコニコしながら契約が翌月までで終了することを告げてきたのだ。見たこともないような笑顔であった。だがよく聞くとその契約終了は彼だけなのか会社としてなのかが不明だった。そして確認させると終了するのは彼だけとのことだった。だが、そこで彼の会社の上司であり営業担当でもある者が、二人一緒に職場を移ることを提案してきた。私にとってその会社は顧客のようなものであるから、彼の希望をむげに拒否することもできないのでそれを受け入れた。するとその後、常駐先の会社との契約が続行することになった。要するに、私がいなくなっては困るから調整してもらったのである。その代わりに別の会社のメンバーの契約が切れた。

それからまた1年が経った。顧客の業績もあまり思わしくないようで仕事が減っていき、職場も毎日静まり返っていた。私は去年のことを思い出し、このままでは契約が終わるのではないかという不安に襲われた。A君との関係も変わらず、私の心理状態は最悪になった。そしてとうとう、私はA君の仕事の仕方について批判とその改善要求をメールで文書として上司をCCに入れて送りつけた。さすがにここまですれば無視はできない。彼の上司がすぐにやってきた。A君は私には直接何も言わず、上司を介して私のA君に対する要求に応じるつもりはないということを告げてきた。彼の上司は彼をほかの社員に交代させてもいいと言ってきたが私は断った。そこでもう、この会社を相手にやっていくことは無理だと思った。

私はその会社との契約を継続しない旨を告げた。彼の上司はA君を交代させるから継続して欲しいと言ってきたが私はA君が理由ではないと言って断った。A君の会社の顧客も驚いたようであったがあくまでも契約上は何も問題がないので当然わたしの希望通りとなった。私は転職するにあたって、A君にもA君の会社にもその顧客である常駐先の会社にも一切おわびするような事はいわなかった。ごく簡単に世話になった礼を言ったのみである。

転職を決意してから新しい職場で仕事をしている今も、ずっと精神状態は最悪である。酒量が増え、酒の力で無理やり寝てはいるがすぐに目が覚めて体調も最悪である。今でも前の職場のことがなかなか頭から離れない。私は転職すればきっと状況が改善すると思ったが、それよりも今まで無駄な苦労をしてきたことの後悔がいつまでも晴れない。やめたのは正しかったと言うかやめざるを得なかったのでそのこと自体に後悔はないが、それまでずっと妥協していたことについては激しく後悔している。


こうなった原因は私にもあるだろう。A君に対して感じる不満は、私自身にも思い当たるものである。
おそらく、A君は私を見て私のようになり、私はそんなA君を通して自分の欠点を痛感して耐えられなくなったのだ。

ちなみに、A君というのは女性である。
そして私はここまで関係がこじれた要因のひとつが彼が女性だった事なのは間違いないと思っている。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。