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TPPにまつわるエトセトラ

私がよく(インターネット上で)知っている仲の悪い二人の大学教授がいる。犬猿の仲で、見た目も犬と猿のようである。この二人は以前から主張することが食い違って、特に犬のほうが猿に噛み付くことがよくある。今は日本がTPPに参加するかどうかで二人の意見はわかれている。

TPPに関してはこの二人だけでなく、私がブログを読んだりtwitterでフォローしている人の間でもしばしば触れられる。私はTPPのことはよくわからないしどうでもいいと思っているが、最近いろんな人がそれについて語っているのを読む機会があって、思うところがあったので記しておく。

「重商主義」「比較優位」「分業」「開国」「自由貿易」「ブロック経済」・・・こんな言葉がキーワードである。TPPに反対しているのは「アメリカの言いなりにはならない」という考え、わかりやすくいうとサヨクの人々である。元サヨクの犬先生は自分がサヨクでないことをアピールしたくてたまらない人なので、いまだにサヨクの猿先生を叩くことでそれをおこなっている。

TPPに賛成している、というか、「反対している人を批判している」人々に見られる共通の姿勢は「こんなことは議論するまでもない当たり前のことだ」というものである。「自由に競争させれば均衡する」という、経済学者がいつも言う原理である。

私は経済学を知らないし興味もない。しかし今までの経験と見聞から判断するに、「自由競争」などというものはプラトンの言う「哲人政治」と同じような実現することなど到底あり得ない理想にすぎない。TPPにしたって、その加盟国同士だけでみれば自由貿易であるが参加しない国からみれば閉じた世界である。そして犬先生ですら、「中国が参加していないことが不安要素だ」というTPP反対論は検討に値すると言っている。

TPPに賛成するか反対するかの分かれ目は「比較優位」とかの経済学の知識を理解しているかどうかではなく、自由は理想だが完全な自由はありえないという現実を踏まえて、どういうくくりで暫定的な限定的な自由を実現するか、というそのくくり方で意見が衝突しているのである。

そして、ここからが私の言いたいことである。私の本領発揮である。TPPに日本が参加することはアメリカからの要請があるからだという前提で話す。その真偽は定かではないが、多分事実だろう。TPPの議論とは、「アメリカ論」なのである。

アメリカはなぜ「世界の警察」となっているのか。なぜソ連、キューバ、イラク、北朝鮮などに敵対してきたのか。なぜ日本を占領し、軍隊を駐留させているのか。アメリカは世界征服をたくらむ悪魔の帝国なのか?否。アメリカは神の国なのである。アメリカが闘い続けてきた相手はすべて閉じた国、自由に敵対する独裁者である。

アメリカは地球上で唯一の神の名の下に築かれた人口国家である。人口国家というのは共産主義国とアメリカしかない。日本とかその他の地理や民族上の都合でなんとなく発生した国とは全く別モノなのである。「アメリカ人」を絵に描くことは不可能である。白人も黒人も黄色人種もいるからである。

TPPに反対する猿先生は「国益」という言葉を使った。これこそアメリカの憎むものである。アメリカは自国の国益など求めていないのである。イラク戦争を起こしたのは原油利権のためなどでは絶対にない。

「アメリカは自由のために闘う神の国」というのがあまりに美化されすぎだというのなら、あくまでもわかりやすくするための仮定での話だが、「世界の国々のバランスを考慮して」という理由だと考えてもらってもいい。同盟とか連合というものの恩恵は、先ほども述べたようにその参加国だけが受けるのであり外れた国々は敵対する。理想は世界連合である。地球上のすべての国々が連合し、ひとつの国となり、「世界は一家人類は皆兄弟」となることである。それが理想であることは誰もが合意してくれるだろう(そして、それが到底不可能であることも)。

TPP参加の是非で議論している人たちは「国益」を理由に論じるから紛糾するのである。賛成するのも反対するのも、本当は国益のためなどではないのだ。「自由貿易にすると日本の農業が壊滅するなどと言われているがそんなことはなく結果として日本の為になる」などというのは嘘である。TPP参加は日本のためではない。参加国すべてのためである。そして恐れるべきことは参加しなかった国が被る不利益、そしてそれが鬱積することによる暴徒化である。

アメリカはそういう「暴徒化したハズレ者」にずっと手を焼いているのである。もうコリゴリなのである。

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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。