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食っていくのは簡単(2)

つまり、私にとって働くことは学生時代のアルバイトの延長だったのである。働くことは人生の目的ではなく手段であった。多くの人がそう考えていると思っていたが、そうではなかった。ほとんどの人は就職して働くことが人生のすべてであるかのように生きていた。

私は契約社員で働き始めて、月給は残業代を含めて30数万円だった。大卒初任給として考えれば非常に高給と言えるだろう。しかしボーナスもないし雇用保険もない。社会保険はあったかどうかうろ覚えだ。契約社員のままであれば退職金ももらえない。聞いたわけではないが、おそらく同じ課で働いていた新人の正社員達は20万にも満たなかったと思う。

そして1年たって、私は正社員になった。やっていたことは正社員になってもまったく変わらなかったのだが、変わったのは給料が安くなったことだ。月給で10万くらい減った。でも、各種保険などがあるから単純に比較もできない。

正社員になってうれしいのはボーナスであるが、これがなかなか満額でもらえなかった。満額でもらえたのは確か4回目だったと思う。いっしょに仕事をしていた先輩に愚痴をこぼしたのを憶えている。


正社員になってすぐに、一人暮らしを始めたが、生活は非常に苦しかった。社会人なりたてだから給料が安いのは仕方がないと思っていたが、だんだん景気が悪くなって仕事が減っていった。それまでは残業が30~40時間はあったのだが、残業がないと月収は20万円を下回る。それでも多少は残業があったが、もし残業がなかったらどうなるか計算してみると15万にも満たない。これでは時給800円でバイトしていたときの方が稼げた。


そして私はその会社で5年間がんばったのであるが、年収は400万円くらいまでしかいかなかった。それもかなり残業をした上である。

心身ともに疲れ果てて退職し、また契約社員や派遣社員で働くようになった。正社員になるより簡単に仕事ができて、各種保険などがない代わりに給料がそこそこもらえるから、とりあえず生きていくにはそれでよかった。

そして今に至るまで、私は「とりあえず生きていく」やり方で生きてきた。途中で一度だけ、そんな生き方に不安を感じて正社員になったことがあったが、やはり給料の安さと自分の人生が確定してしまう恐怖を感じてすぐに辞めた。

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私がいいたいのは、この私の生き方が本来の働くということではないかということである。
「社員」というものは、各種保険や退職金やボーナスや福利厚生などで手厚く保護されている。病気をしたり失業したり退職したときにも困らないような制度に守られている。しかし、今やそれらの社員を雇うためのコストが企業の重荷となって、それらが不要な労働力に対する需要が高まっている。

私は結局正社員をやめたときに退職金はゼロだった。勤続年数が短かったからか、辞め方が悪かったのかなんだかわからないがもらえてもたかがしれていただろう。病気で欠勤しても疾病手当てなんか出なかったし、辞めたあとに失業手当ももらわなかった。働く意志がなかったので職安に行くことすらしなかった。

何かあった時のためなら民間の保険や共済に加入すればよいし、老後の生活を考えるなら自分で貯金すればいいし、失業したらアルバイトでもすればいいのだ。どうしてそんなことのすべてを会社で面倒を見なければ、面倒を見てもらわなければならないのか?


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会社員になることというのは、ただ「食っていく」手段としてはあまりにも無駄が多い。「会社に就職しないと食っていけない」というのは脅しであり幻想である。就職できなかったり仕事を失ったりミスしたことで自殺したりする人までいるのは、その幻想のせいだ。





このブログの人気の投稿

死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。