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2011年12月7日水曜日

匿名発言の本質

ある有名な人が最近のインターネットでの発言が独善的、一方的、嘲笑的になっていると嘆いていた。私もそれは感じる。それは、他人の発言についてだけでなく、自分の発言についても同様である。だが、そうなってしまったのは、いわゆる人心が荒廃しているからだけではない。

人心が多少なりとも荒廃しているのは昔からで、今はそれがちょっと激しいかもしれないが、それがインターネットによるものだとか、大震災によるとか、不景気のせいだとかは言い切れない。また、それらのことにより荒廃しているなら、それはそれで理由のあることだからそれほど心配には及ばない。

私はインターネットでの発言が高圧的断定的嘲笑的になる本当の理由を知っている。

なぜなら私自身が意識してそのように発言しているからだ。

インターネットでの発言というのは、大学教授であろうが小学生であろうが、億万長者であろうがニートであろうが、同じフォントで同じ露出度で表示され配信される。

多くの場合匿名なので、それが誰の発言なのかがわからない。たとえ名乗ったとしても、それが本当であるかを証明することは非常に難しい。

この、インターネットでの匿名発言について、「自分の身元が他人にはわからないからいい加減なことが言える」としか考えていない人が多いが、それは匿名問題のほんの一面にすぎない。

匿名であること。これはとても異常なことである。
私は本を読んだり音楽を聴く時に、それが誰のものかを基準にして選ぶ。
夏目漱石の書いた小説だとか、ベートーベンが作曲してグレングールドがピアノを弾いているとか。
多くの人がそうだろう。

ニュースで世間を騒がす発言だって、首相が言った、官房長官が言った、大臣が言った、ということだから問題発言になるのであって、2ちゃんねるに匿名で書き込まれた1レスであったらニュースにもならない。

「だからインターネットの発言は信頼性がなく、顔と名前を出しての発言には責任が伴うから慎重さが求められる」というのが普通の考えだろう。

しかし、信頼性がないうんぬんの前に、匿名で年齢も職業も国籍も不祥な発言というのは、そもそも意味を持つことも困難なのである。

「真実であればどこの誰の発言であろうが関係ない。真実は真実だ。」というのはもっともらしい言葉であるが、実際にはどこの誰かがわからない言葉が人を感動させたり利益をもたらすことはほとんどないであろう。

たとえば人命救助をしたとか、宝くじの一等を当てたとかいう話であれば、それは事実でなければなんの価値もない。
箴言だって、必ず誰の言葉かが示される。


匿名発言というのは真偽がどう、善悪がどう、価値がどうという前に、意味を持つことすら非常に困難なのである。

そのため、通常ではやりすぎなくらいに主張を強め、異なる解釈のしようがないほどに断定しないと伝わらない。だから、発言が一方的に断定的に独善的になるのである。

それは、「匿名だから言いたい放題言ってやれ」というような単純かつ低級な動機だけによるものではないのだ。

我々は普段の生活や仕事で、非常にあいまいで断定を避ける発言の応酬に終始している。本音や自分の信条を表現する機会がなかなかない。

「本音」というのは悪いもので隠すべきものである、というのが常識のようになっているが、「正しいことなのに本音が言えない」ということで苦しむこともあるだろう。

わたしはインターネットで匿名により言いたい放題言うことよりも、普段の生活で社交辞令だけで暮らしていることの方がよっぽど問題であると思う。

インターネットでは私も言いたい放題言っているが、そのときにだって決して自尊心を失ってはいない。むしろ自尊心を失っているのは本音を言わない普段の生活のほうである。