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匿名発言の本質

ある有名な人が最近のインターネットでの発言が独善的、一方的、嘲笑的になっていると嘆いていた。私もそれは感じる。それは、他人の発言についてだけでなく、自分の発言についても同様である。だが、そうなってしまったのは、いわゆる人心が荒廃しているからだけではない。

人心が多少なりとも荒廃しているのは昔からで、今はそれがちょっと激しいかもしれないが、それがインターネットによるものだとか、大震災によるとか、不景気のせいだとかは言い切れない。また、それらのことにより荒廃しているなら、それはそれで理由のあることだからそれほど心配には及ばない。

私はインターネットでの発言が高圧的断定的嘲笑的になる本当の理由を知っている。

なぜなら私自身が意識してそのように発言しているからだ。

インターネットでの発言というのは、大学教授であろうが小学生であろうが、億万長者であろうがニートであろうが、同じフォントで同じ露出度で表示され配信される。

多くの場合匿名なので、それが誰の発言なのかがわからない。たとえ名乗ったとしても、それが本当であるかを証明することは非常に難しい。

この、インターネットでの匿名発言について、「自分の身元が他人にはわからないからいい加減なことが言える」としか考えていない人が多いが、それは匿名問題のほんの一面にすぎない。

匿名であること。これはとても異常なことである。
私は本を読んだり音楽を聴く時に、それが誰のものかを基準にして選ぶ。
夏目漱石の書いた小説だとか、ベートーベンが作曲してグレングールドがピアノを弾いているとか。
多くの人がそうだろう。

ニュースで世間を騒がす発言だって、首相が言った、官房長官が言った、大臣が言った、ということだから問題発言になるのであって、2ちゃんねるに匿名で書き込まれた1レスであったらニュースにもならない。

「だからインターネットの発言は信頼性がなく、顔と名前を出しての発言には責任が伴うから慎重さが求められる」というのが普通の考えだろう。

しかし、信頼性がないうんぬんの前に、匿名で年齢も職業も国籍も不祥な発言というのは、そもそも意味を持つことも困難なのである。

「真実であればどこの誰の発言であろうが関係ない。真実は真実だ。」というのはもっともらしい言葉であるが、実際にはどこの誰かがわからない言葉が人を感動させたり利益をもたらすことはほとんどないであろう。

たとえば人命救助をしたとか、宝くじの一等を当てたとかいう話であれば、それは事実でなければなんの価値もない。
箴言だって、必ず誰の言葉かが示される。


匿名発言というのは真偽がどう、善悪がどう、価値がどうという前に、意味を持つことすら非常に困難なのである。

そのため、通常ではやりすぎなくらいに主張を強め、異なる解釈のしようがないほどに断定しないと伝わらない。だから、発言が一方的に断定的に独善的になるのである。

それは、「匿名だから言いたい放題言ってやれ」というような単純かつ低級な動機だけによるものではないのだ。

我々は普段の生活や仕事で、非常にあいまいで断定を避ける発言の応酬に終始している。本音や自分の信条を表現する機会がなかなかない。

「本音」というのは悪いもので隠すべきものである、というのが常識のようになっているが、「正しいことなのに本音が言えない」ということで苦しむこともあるだろう。

わたしはインターネットで匿名により言いたい放題言うことよりも、普段の生活で社交辞令だけで暮らしていることの方がよっぽど問題であると思う。

インターネットでは私も言いたい放題言っているが、そのときにだって決して自尊心を失ってはいない。むしろ自尊心を失っているのは本音を言わない普段の生活のほうである。


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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
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しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。