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2011年12月17日土曜日

自己

しつこいけど死について。

というか、死を考えるということは自己を考えることである。

わかりやすく言うと、肉体が自己なのであるかということ。
肉体が自己であり心や感情はその機能にすぎない、ということであれば今までのそしてこれからの私の思いや悩みはすべて肉体とともに消滅するのでどうでもいいことになる。

しかし、もしそうでなかったら、大変だ。そして多分、そうでない。
それを前提として、死や自己について考えているのである。

私が自己と肉体が別であると考える一番身近で強力な根拠は、夢を見ることとそこから目覚めていく過程で感覚や意識が変化することである。

特に体調が悪い時。風邪を引いていたり、花粉症の症状が出ていたり、どこかケガをしている時。
寝ていて目が覚めてから身体の苦痛を感じるまでに少し時間がかかる。

これはまるで、外に出ていた自分の魂が肉体に戻っていくかのようである。

寝ている間の数時間、私の意識は無い。寝る時に12時を示していた時計の針が、目覚めると7時になっている。

その間意識はないのだが、眠気が取れ、空腹になっていたり、体温が下がっていたり、筋肉痛になっていたりと、身体の状態が変化していることで、自分は数時間のあいだ睡眠という状態にあったことを知る。

心や感情については、寝る前に悩んでいたことを忘れていることもあるし、思い出して憂鬱になることもある。寝る前に不安に思っていたことも、翌朝になったら心配におよばないと思い直すこともある。

だが寝る前後で変わってしまうような感情や悩みというものは、たいしたものでないからだ。

本当に悩んだり困ったりしていること、たとえば借金だとか、何かをなくしたとか、仕事がうまくいかないとか、苦手な人間のこととか、そういうものは寝ても覚めても状況は変わらない。

そして、それらのことは肉体と同様、目覚めてから思い出すまで少し時間がかかる。





自己を見つめるということは、若い頃、思春期の頃からイヤというほどしてきた事である。きっと多くの人がそうであろう。そして、私もそうであるが、自己を見つめすぎるのはよくない、という結論に達する。もしくは、自己を見つめても何も結論がでないのであきらめて他者や世界に目を向ける。自己を見ているヒマがなくなってくる。

しかし、他者や世界を見てそれらと関わっていくうちに、どうしても自己を見直さざるを得ない状況が必ずやってくる。

今の私がそうである。

このときに、自己を見つめても何も出てこない、無駄だ、外に目を向けろと言っても無駄である。