愛聴盤

"Who's last" The Who

"Empire burlesque" Bob Dylan

"You're under arrest" Miles Davis

"Flogging a dead horse" The Sex Pistols


これらは私がよく聴くミュージシャンのアルバムの中で特に好きな、最高傑作としてもよいと思うアルバムであるが、一般的にはそれ程まで評価されていない。

これらは皆、私がそのアーティストのアルバムで初めて聴いたものである。
初めてなので印象が強烈なのだろうか?

Led Zeppelinはあまり聴かないが、1枚目だけは好きで、それもやはり初めて聴いたものだ。

そして、これらのアルバムはすべてアナログレコードをカセットテープにダビングしてラジカセで繰り返し聴いていた。

ケネディ暗殺について

ケネディ暗殺の犯人として、運転手を疑う人がいることを初めて知った。狙撃犯が致命傷を負わせることができなかったため、運転手が右手でハンドルを持ち、半身になって左手に持ったピストルで自分の右肩越しに後ろにいたケネディの頭部を撃ったというのである。

youtubeにそのように見える映像があったが、何回か見るうちにそれは助手席(画面の手前側)に座っている男性の頭部に光があたってピストルのような形に見えるだけだということがわかった。

そもそもあんな衆人環視の状況で運転手が撃つあるいは彼に撃たせるなどということがあるはずがない。

この暗殺の真犯人については諸説あるが、私は今ではオズワルドの単独犯行説が一番あり得るような気がしてきた。

とにかく、この暗殺は派手すぎるのだ。衆人環視の中、大統領が頭を撃ち抜かれ、その後犯人とされた男がテレビ中継中に撃ち殺される。

これらがみな陰謀によるものであるとしたら、あまりに派手すぎるのである。こんなに派手に暗殺しその犯人をも消し去ることになんのメリットがあるのか。

誰が黒幕であるにしても、あまりに派手すぎる。そしてうまく行き過ぎている。これは誰の意図でもなく、個々の人間が何も考えずに短絡的に行動した結果であると考えるのが一番しっくり来る。

以前にも一度書いたがもう一度書く。2039年に真実が公開されるといわれているが、それはあくまでも今公開されていない情報が公開されるというだけであり、それによって真犯人が判明するとは限らない。そもそも、もし真犯人が判明するような情報であるなら、2039年を待たずに公開されなければならないし、それがCIAや軍部などの陰謀であるということなら、未来永劫公開されないであろう。

「現代思想」に対する不信

ジュンク堂へ行って浅田彰の「構造と力」、「逃走論」と、あと一冊近くにあったのを一冊買ってきた。

私がちらっと読んだのは、「逃走論」の最初の文章で、「スキゾとパラノ」という区別であった。スキゾは微分しパラノは積分するということを言っていた。

私はおそらくこの本を近所にあった図書館で、有名な本だったから、立ち読みしたのだと思う。そして、今読んでもそうだけど、その明らかにふざけている、何か悲壮な覚悟を負って真実を追究しようあるいは世間の誤解を解こうというものではなく、皆が当たり前だと思っていることに疑問を呈して、困った顔をさせておもしろがろうとする意図が見えたので、私は先を読まなかった。

あれからもう20年近くたったが、いまだにキーワードとして、マルクス、構造主義、近代、貨幣、資本主義、などが取りざたされている。そして、いまだに、どうやら正解が出ていないと言うことも感じられる。

最近話題になることの多い東浩紀氏が、「動物化するポストモダン」を書いたときに、浅田氏が自分の著書が古くなったとコメントしたと言う。

20年位前、確かに私も「構造主義」「ソシュール」などのキーワードに興味を持ったことがあったが、とにかく主体的に積極的に価値を提示せずにとにかくかき回し混乱させるような姿勢にしか見えなかった。それは私のもっとも憎むものであった。

「逃走論」という本は、まとまったひとつの文章ではなく、雑誌に掲載されたほとんど世間話のようなものから、対談などを集めた雑多な本であった。その対談の相手は、私が先日読んだ「貨幣進化論」を書いた岩井克人氏、そして私の中では生粋のマルキスト、柄谷行人氏であった。

タイトルが「マルクス・貨幣・言語」であったので、3人の対談を興味深く読んでみたが何を言っているのか何を言いたいのかはさっぱりわからない。わかったことは、マルクスが言ったことはどうとでもとりようのあることだ、ということだけだった。

「貨幣」とはなんなのか。「利益」とはなんなのか。それをいまだに誰も明言・断定できない。


浅田氏はまた、逃走論で、「ゲイ」について言及していた。
私はいつも、「現代思想」というもにはどうして同性愛者がつきまとうのかが不思議でならない。
彼の言う「ゲイ」は単なる男を愛する男と言うような同性愛者のことではないようだが、それにしても、私は自分の性というものが、自分の主義や思想やらでどうにかなるものではない、という事については言い争うのもバカらしいくらい、当然のことである。


自分の性について否定して自分で別の性を選択する、というようなことは何かの皮肉とか、言葉遊びとかで言うのならニヤニヤして聞いていられるが、それに基づいて法律まで変えようとしたり、実際に肉体を改造しようとしたり、というのを見ると、やはり狂気や精神あるいは心理の疾患であるとしか思えない。


いろいろな思考

微分的思考と積分的思考ということを昔聞いたことがあって、最近それについて思い出して検索してみると、いろいろな人がそのことを語っていたが非常に単純で、「一時的な状態を考えるか結果の累積を考えるかの違い」のようにしか考えていないひとばかりである。

私が昔聞いたときには、そんなつまらないことではなかった。確か、浅田彰が言っていたと思う。

もっと抽象的な考え方を言うのであって、微分的思考というのは、物事を分析し続けるようなもの、積分思考は、・・・よく覚えていない。

「速度」と「距離」というのが微分・積分の一番わかりやすい考え方の例だという説明があったが、そういってしまうととたんにつまらなくなる。「貸借対照表が微分、損益計算書が積分」とか。


たとえば、今私の目の前に時計がある。目覚まし時計である。電波式で時刻を修正する機能がある。アナログ時計である。暗くなると秒針が止まるのでコチコチという音がしない。
私の言う「微分的思考」というのはこういうことである。「微分」じゃないのかもしれないが、だったら呼び方を変えてもいい。「分析的思考」だろうか。

その逆は、時計にもいろいろある。腕時計、デジタル時計。また、私の部屋にあるこの時計と同じ型の時計が日本のどこかで誰かが使用している。今も生産され続けているだろうか。この時計を設計したのはどんな人だろうか。・・・というような考え。


一個の時計を見た時に、そこにあるその時計について考えるのか、時計というもの、時計という概念を考えるのか。


以前、ちょっと実存主義とは何か、ということを調べたことがあったのだが、簡単に言うと、実存主義というのは一般概念は実在せず個々の存在から抽象化されたものである、というようなことだと理解した。その例が、サルトルが言っていた、「ユダヤ人という概念は実在せず、一人一人の人間が存在するだけだ」というような言葉である。


また、「英語は冠詞だ」という本を読んでとても参考になったのだが、英語では名詞が単数か複数かを必ず意識する。「an apple」なのか「apples」なのか。日本語ではわざわざ一個のリンゴとかリンゴ複数などとは言わない。この単数複数というのは、たんに一個なのかたくさんなのか、という意味だけではない。「an apple」というときは、話者の目の前にあるいは今思い出している情景の中に存在する特定のリンゴを意味する。「apples」という時は、本当に複数のリンゴがある場合にも使うが、「リンゴ一般、りんごというもの」と言う意味で使われる。「Apples are red.」とか。

だから、名詞を単数形で冠詞をつけずに「apple」と言うと、英語を話す人にとってはとても気持ち悪いそうだ。私は実際、帰国子女の人に何の単語だか忘れたが何かを聞かれて単数で冠詞をつけずに答えたら、「a」をつけて訂正されたことがある。


実存主義でいう「人間一般という概念は存在しない」というのも(これはあくまでも私がそうだと理解する実存主義である)、この名詞の単数形に定冠詞をつけないと気持ち悪い、ということと同じではないだろうか?「a man」「men」「man」

「人間は平等」だ、というのは「all men are created equal.」というように複数形で書かれる。

日本語だと「人間」というのが実際に生きている人々をさしているのか、「人間というもの」というある概念をさしているのかがはっきりしない。

英語でも「all men」が実際に生きている大勢の人間をさしているわけではないと言えるかもしれないが、日本語よりは実在の人間をさしている印象がある。なぜなら、英語では実際には使用されないが「man is created equal」という書き方ができるからだ。定冠詞がつかない名詞の単数形はそのもの一般と言う概念を示す、ということがありえたかもしれない。

「不可算名詞」というものもある。私はいまだに不可算と可算の区別が正確にできない。今調べてみたら、「抽象的で漠然としたもの」は不可算名詞となるものがあるそうだ。「man」というのはそうではないので、可算名詞なのだろう。


お客様

先日、「資本主義とはポリシーでなく状態である」ということを書いた。これは我ながらよく気づいたというかうまく整理できたと思う。

私がブログなどを書く時はいつもそうなのだが、これは頭の中で思いついてコレダ!と思って書き付けたのではない。書く前はもやもやと形はなかったものが、書いていくうちに形になってポロっと出てくるのである。

つまり構想も計画もなく、いきなり書き始めるのである。そして、小説家とか、お笑い芸人とか、映画監督とか、ミュージシャン、画家など、何かを創作する人の話を聞いていると、皆同じようなことを言っているので、多分正しい書き方であると思う。初めから何を書くかがわかっていたら、逆に言うと書く必要はない。よくモーツァルトが天才であることを語るのに、楽譜に訂正の跡がまったくなかった、という事が言われる。「アマデウス」にもそういうシーンがあった。この話を聞くと、モーツァルトの頭の中には曲がすでに完成していてそれをただ書き写すだけだったのか、と思うかもしれない。私も最初はそう思っていた。だが、おそらくそうではない。彼はもちろん作曲しつつ楽譜を書いていったのだ。創作していたのだ。もし、彼の頭の中で作曲が完了していてそれを本当にただ写すだけだったら、むしろその場合の方がミスしやすいのではないだろうか。すでに創作は終わっているのだからただの機械的な作業だ。退屈でしかたなく集中力も続かないであろう。

そして、ここからが肝心なのだが、私はこのことは芸術などの創作に限らないのではないかと考えている。多くの人は、この行き当たりばったりな創作方法はあくまでも芸術作品とか個人のブログのような思い付きの整理みたいな場合にしか適用できないと考えるのではないだろうか。たとえば会社の仕事では失敗の無いようにきっちりと計画して厳密に検討を重ねて慎重に実施する必要がある、と。だが、私はそうは考えない。仕事もやはり、創作と同様、後先考えずに開始し、進めて、終える。

私も社会人になりたてのころは仕事というものは計画に基づいてコツコツと進めるものであると思っていた。しかし、言われたことが撤回されてあと少しで終わるという時に最初からやり直したり、ひどい時にはやったことが不要になったりした。それが何度も何度も繰り返され、私はこの会社はひどいところだ、この上司は能無しだと思っていたが、その後いろんな職場でいろんな上司や顧客を見ていくうちに、仕事とはそういうものなのだ、と理解するようになった。

私はこのやり方が正しいと信じているが、最近このやり方で苦労をするようになった。特に若い人と一緒に仕事をすると、私のやり方についてこれないのである。若い人というのは経験不足であるし依存性も強いので、上司や先輩の言われたことをそのままやろうとする。この時に、先輩として若者を育てる方法は二つある。ひとつは、最初なので細かく指導しとにかく覚えさせ、だんだん指導を減らしていって最終的にひとり立ちさせる方法。もうひとつは、指導はそこそこにしてとにかくやらせてて失敗させつつ体で覚えさせるやり方。

若者はほぼすべての人は前者を望む。また、育てる側も前者が理想と考えている人が多いようだ。後者の体当たり式が適用されることがあってもそれは育てる側が忙しかったり育てる気がなかったり単にめんどくさかったり、ひどい時にはイジメ感覚でおこなわれることもある。

だが私は今まで数々の職場で様々な人間を見てきて、手取り足取り教わって成長していった人間など見たことがない。私が言っているのは役職がつくとか給与が増えるとかの単なる「出世」のことではない。能力がある人は「出世」しやすいだろうが、出生しているから能力があるとは限らない。職場には、誰が見てもこの人がいないと回らないと言うキーパーソンがいるだろう。それは組織上のリーダーであるとは限らない。リーダーはもちろん重要であるが、実際に問題にぶつかり解決していくのは特に今の日本の会社ではリーダーではない。

私が「成長」といっているのは、社会人になりたての若者がそのようなキーパーソンになることを言っている。そのような成長は、どんなに教えても教えられるものではなく、むしろ教えすぎると何も考えなくなって成長しない。


誤解して欲しくないのは私のやり方はいわゆる丸投げとか放任と呼ばれるものではない。私は仕事をするのに十分ではないとわかりつつ、仕事を託す。しかしそれは面倒だからでも成長させるためでもない。仕事を依頼する相手に切り開いて欲しいからだ。仕事のゴールは決まっていても方法はひとつではない。また、ゴールもあくまでも暫定で、途中で変わるかもしれない。

このやり方で戸惑う人には、あるモノが欠けている。それは勤勉さでも組織に対する忠誠でもない。顧客の意識である。顧客とは取引先ではない。自分がしている仕事によって提供される製品あるいはサービスの利用者のことである。それがわかっていれば、ゴールはおのずと定まる。上司や先輩として教えるべきなのは、誰が顧客であるかということくらいである。


しかし、若者は、特に私が最近接した幾人かの若者は、顧客というものをまず意識しない。会社に対する忠誠心はすさまじいのに、その会社の顧客についてはまったくといっていいほど意識がない。むしろ敵視している。あくまでも、上司や先輩が言うから、顧客を重んじるようなフリをするだけである。

顧客のことを思え、などというのは、教えられるものではない。これは命令して思わせるようなものではない。これがない人間には何も根付かないだろう。



資本主義とは状態にすぎない

日経新聞の「やさしい経済学」というコラムで、「貨幣論の系譜」というものが連載されていて、切り抜いて保存してある。「やさしい」と書いてあるくらいだから、大学で経済学を履修した人には常識程度のことなのかもしれないが、私には新鮮な話である。今朝、二人の有名な男が貨幣についてまったく異なった見解を示したという話があった。二人の男とは、アリストテレスとアダム・スミスである。アリストテレスは、貨幣とは「共同体の合意や国家の法律の産物である(貨幣法制説)」と考え、スミスは「多くの人が欲望する商品だから貨幣となる(貨幣商品説)」と考えたそうだ。私はアリストテレスと似た考え方だ。貨幣というものは、それがあると便利であるから使用され、その価値は管理する必要があり実際にされている、と考えていた。しかし、かつて「金本位制」というものが存在しさらに現在はそれがなくなっていて、貨幣価値というのは取引をする2者間で合意さえすればよく、貨幣そのものに価値があるのではないということを知って、貨幣の本質というのはスミス的な考えの方が正しくあらわしているのだと考えるようになっていた。しかし今朝、アリストテレスという強い味方を見つけて、自分が持っていた「貨幣法制説」的な考えをもう一度見直したくなった。

これも今朝の日経だが別のページで、あるIT企業の若い社長が彼が携わる産業が「日本で雇用を生み税収を増やせる数少ない産業である」と述べているのを読んだ。これは事実なのかもしれないが、私はこのような考え方にどうしてもなじめない。産業というものは需要があって生まれるものであり、その結果として雇用や税収が増加するのであって、「雇用や税収を増加させるために産業を興す」という考え方はいってみれば「動機が不純」に思えてならないのだ。要するに彼の言っていることは、「国益になる」ということなのだろう。ただのカネ儲けではなく、自分がカネ儲けすることによってそれが国益にもなるということで社会貢献をしていると考えているのだろう。だが私はそれをすばらしいこととは考えない。企業というものは自身の利益の増大をひたすら目指せばよいのだ。税金というのはいわば国家や地方自治体に支払う手数料のようなものだ。国家や地方自治体が治安を維持し国や県などを運営してくれているから商売ができる、そのために支払うだけだ。産業が興ればカネや人が動く。そのためにはそれを支えるインフラが必要になる。だから税金を支払う。この「税金とは何か」ということについても諸説あるようだが、諸説あるということは誰にもわからないということでもある。貨幣とは何か、税金とは何か、商売とは何か、労働とは何か、ということについては誰も決定的な事は言えないようであるが、ひとつ言える事は、「現状はこうなっている」ということを述べる者と、「本来はこういうものであった」あるいは「こうあった方がより良い」ということを述べる者がいる、ということである。
スミスは前者であり、アリストテレスは後者である。多くの経済学者は前者である。経済学者にもいろいろあるようだが、おおむね自由放任がよい結果をもたらすという考えの人が多いように思う。

最近、「資本主義の限界が見えた」「資本主義が破綻しつつある」というような言葉もよく見かける。ソ連が崩壊してベルリンの壁が崩れた頃には「やはり社会主義は間違っていて資本主義が正しかった」というように考えた人が多かったはずだ。私もそうであった。しかし、私は「資本主義」という言葉についてもずっと違和感がある。それは、そもそも「主義」というのは「かくあるべし」という信念のようなものを意味するものであるが、「資本主義」というのは、ただ人々が自由に、誰の指図もうけず管理もされず欲望の赴くままに経済活動をするシステムであって、目指すべき理想も何もないからだ。「資本主義」というのは社会を豊かにしようとか国益を増大させようとか人類を幸福にしようという目的のもとに考え出されたものではなく、人々がそれぞれ自己の利益を増大させようと考えた結果として生まれたシステムにすぎないのだ。「共産主義」というのは、そういう意味では「主義」であると納得できる。ただし共産主義の考え方自体には賛成できない。「日本やアメリカは資本主義を採用している」という言い方を見ることがあるが、私に言わせるとそれは間違いで、経済について特定の主義を持たず放任しているだけである。何もしないのが「資本主義」なだけであって、「ウチは資本主義でいきましょう」と考えて実行しているわけではない。だから「資本主義が破綻した」というのは、「ほったらかしにしていてはいけない」という事である。では共産主義や社会主義を導入するのかというと、そんな単純な人もほとんどいない。

行き着くところは、「現状描写派」と「あるべき論派」の対立ではないだろうか。資本主義というのは現状描写派である。これはいいとか悪いとかではなく、ほっといたらこうなっていてうまくいっているからこれでいいのだ、という考え。共産主義や軍事独裁などは「あるべき論派」である。つまり、「資本主義」と「共産主義」というのはそもそも観点が違うので、比較にならないのである。


「神の見えざる手」と言う言葉があるが、国富論では単に「invisible hand」としか書かれていない。そしてこれは断じて神の手などではない。神というものがこのようなものだと考えている人は無神論者である。「自分が儲けようという利己心が社会全体に利益をもたらす」というのは単なる必然である。水が低きに流れるような、物理法則のようなものだ。神とは法則を作ったものであって法則そのものではない。さらに、この商人の行動は「主義」ではない。ただ儲けよう、自分の利益を増そうという利己心の「結果」にすぎない。「資本主義が間違っている」という事は、人間の欲望を否定するに等しい。


ではわれわれはどうすればよいのか。人間の欲望が醜く間違ったものであるとわかったなら、戦争でも起こして破滅すべきなのか。

私は答えを持っている。私も、人間の欲望は根本的に間違ったものであると考えている。「性悪説」と言ってよい。ただし、だからといってその存在を否定するものでもない。「生まれつき悪人であるが、生きていかざるを得ない」という考えだ。国家や社会をうまく運営するための正解など存在しない。その時その時の不具合を修正することを繰り返すのみだ。経済を放任してうまくいかないなら管理する。管理しすぎて発展しないならそれを緩める。それを繰り返すことによって徐々に世界を良くしていく。大切なのは「良くしていく」という考えである。何度もいうが「資本主義」とか「自由」というのは単なる「状態」、「結果」にすぎないので、「資本主義ならうまくいく」「自由にすればうまくいく」というのは間違っている。




なんだか興奮して長々と書いてしまった。少し結論を急ぎすぎたり深く考えずに書いてしまったこともある。関連する本を買ってきたので読んでからまた考えを整理しよう。





悪人は死ぬべきか

私はオウム事件に非常に衝撃を受けた。多くの人が彼らに怒りを覚えているだろう。十数人の死刑が確定している。だが、多分私が受けた衝撃と一般の人が受けた衝撃そして怒りは違うものだ。

私があの事件で衝撃を受けたのは、「この世で善行を積まず悪事を働く人間は殺してあげた方がその人の為である」という思想についてである。

「ポア」とか、ヴァジラヤーナサッタ?とかいうものである。

「人はこの世に修行するために生まれてきて、死後に行くところは生前の行いによって決まる」という考えは特に珍しくなく、よく聞くものである。
それ自体はなるほどね、フーンと言うくらいでそんなのおかしい、と怒るようなことではないが、それが本当なら先ほど述べた、「悪人は殺してやったほうがいい」という考えも正当化される。

「ポア」された人のやっていたことが善か悪かというのも問題である。
たとえば殺人は皆悪事だと言うだろうが、家族などが襲われそうになったときに殺人者と戦って殺すような場合は正当防衛と言って単なる殺人とは区別される。

オウム真理教のポアも、彼らに言わせれば同じような理屈を言うだろう。要するに、われわれと彼らでは、善悪の基準が異なるのである。

オウム真理教の信者たちが引き起こした事件、拉致殺害、サリン噴霧などについては誰もが間違いなく悪であると、悪いことであると認めるだろう。だが、そんなことであっても、裁判を行って何年も、20年近くもかけて、ようやく悪であることが認められるのである。

そして実行犯や首謀者達は死刑になろうとしている。

この死刑と、彼らがおこなったポアと、何が違うのだろうか?

懲役は更生という目的があるが、死刑によって罪人はどうなるものと考えられているのか?
単に社会にとって有害で不利益な存在であるから殺害という社会からの抹殺処分として行われているのか?まさか、死んだ方が彼らにとって幸せだということで殺しているのではあるまい。


「悪いことをしたら罰を受けるのは当たり前だ」という言葉があるが、これはオウム真理教のポアの思想と全く同じくらい、根拠のない考えである。

死刑を除き、日本で(ほかのほとんどの国でも)罪を犯して懲役を受けるのは文字通り「懲らしめ」の為であるのか?それなら、まさに「目には目を」のように、犯人に苦痛を与えるなり刺青をいれるとか指を落とすとかすべきではないか?そういうことをしていた時代や国もあったようであるが、現在はそのような事はされない。罪人はただ法律にしたがって裁かれるだけで、人として何の欠陥を宣告されるわけでもない。むしろ、何か欠陥がある場合は無罪になりさえする。

逮捕され、起訴され、有罪判決を受けた人が軽蔑されるのは、あくまでも人の感情や信条によるものである。

私もそうであるが、多くの人が、何かひどいことをした人、みっともないこと、ずるいこと、卑怯なことなどをしたのを見た時に『こんな奴死ねばいい』と思ったことがあるだろう。

凶悪な殺人犯などが死刑になったときに『当然だ』と思うだろう。死刑にならなかったら、『何でこんなひどいことをして死刑にならないんだ』と憤ることさえある。


私が衝撃を受けたのは、オウム真理教の犯罪はそのわれわれがいつも抱いている善悪とその報いの思想を、「無邪気」に実行してしまったことに対してである。

そう、私は彼らに「無邪気さ」を感じた。「悪いことをした奴は死んでしまえ」というのは子供の発想である。普通の大人はそんな考えを持たなくなるが、それは自分に人を裁いたり殺す資格がないことに気づくからであって、その考え自体を否定するからではない。



私たちが心の中で、あるいは誰にも聞こえないときには口に出して『こんな奴死んじまえ』と言うが本当に殺したりしないのは、別に理性が制御しているわけでもなく、悪人だからといって命まで奪われることはない、と考えているのでもなく、その人がやった『悪事』が、本当に悪なのかを確信できないからではないのか。

われわれは誰もがきっと、「私は善悪の基準を知らない、何が正しくて何が間違っているかは私には判断できない」と言うだろう。

では、それがわかる人がいるだろうか?もしくは、修行でもいい、勉強でもいい、人類史上最高のIQを持ち、人格もすばらしい聖人のような人間が現れたとして、そんなことはありえない、ということはおいておいて、仮定として、そのような完璧な善悪をわきまえた人物が現れたら、その人は悪人をどうするだろうか?片っ端から死刑にしていくだろうか?

・・・おそらく、しないであろう。多くの人がそう思うのではないだろうか。だから、オウム真理教がやったことに対して怒ったのである。われわれが怒ったのは、間違った善悪の基準に対してではない。その基準が正しいかどうかはさておき、殺すというのはひどい、という理由である。

私もそうだと思う。完璧な人間がこの世に降り立ったら、悪人を裁いて殺しまくるようなことはないだろうと思う。


私は死刑には反対なのだが、いつごろからそう考えるようになったのかよく覚えていない。オウムの事件の前からだったと思うのだが・・・

というわけで、私はたとえオウム事件の実行犯や首謀者であっても、死刑にすることは賛成か反対かと言われれば反対である。

でも、別に署名運動をして彼らの死刑をやめさせようとか、日本の法律や司法は間違っているなどというつもりもない。まあ、あれだけの事をしたら死刑になるわな・・・と、傍観しているのみである。でも、「あんな悪事をしたのだから死刑を受けるのは当然だ」などということを、公的な立場でコメントするようなことは絶対にできない。

調子に乗ってる彼

今関西地方のある地方公共団体の首長の言動が話題になっている。私は彼が具体的に何をめざしているのか詳しいことはよくわからない。ただひとつ言えるのは彼の言動が不愉快極まりないということだ。彼が何かを言うときに必ずだれかをけなし、ひとでなしの諸悪の根源であるかのように言う。それがひとりやふたりではない。何かするとき、何か言うときに敵対するものはすべてそのように扱うのである。彼がまだ一介の弁護士兼タレントであった時に、申告漏れだかなんだか忘れたが、彼について週刊誌に書かれたことについて彼のブログで2ちゃんねるでしか見られないような汚い言葉で感情的に記者をけなしているのを読んで、なんかヘンな奴だなと軽蔑したのを覚えている。彼が出演する番組はよく見ていて確かに弁舌が達者ではあるが笑わせようとする話では全く笑えず彼に突っ込む司会者によってやっと笑いが成立していた。

彼がかなり過激な、急進的というのか、改革をすすめていることはニュースなどでもチラホラ聞いていた。そしてある時、インターネットで関西でしか放送されない番組で彼が例によってある人間をクソミソにけなしている動画を見た。その時彼は、いかに自分が首長を勤める地方自治体が腐敗していてその腐敗した組織を立て直すには生半可なことではできないかを力説していた。彼ははっきりと「暴力的にならざるを得ない」と言っていた。

たとえば役人の給与が高すぎるとか、財政赤字が増加し続けているとか、確かに明らかにおかしいと言えることがあるのだろう。鉄道やらバスやらを民営化するとか言う話の中で彼は「市民全員が幸福になるようなことは一介の市長ではできない、それにしては市長の給与は安すぎる」などと言っていた。私はこの言葉についても非常に不愉快なものを感じた。政治に携わるものが、その報酬について安いなどと言った人間をいままでみたことがない。では報酬が高ければもっとよい仕事をするのか?報酬に照らし合わせて自分の政策を変えるのか?

彼は確かに今まで誰もできなかった改革をしようとしているのかもしれない。それくらいのエネルギーと知恵を持っているのかもしれない。でも、彼が今やろうとしていることは自分の理想を推し進めることだ。彼ははっきり暴力的という言葉を使った。彼は自分の政策に従わないものを解雇するというような発言をしたのも覚えている。

私は彼の政策ひとつひとつの是非をとやかくは言わない。しかし、今彼が戦っている人間たちも自分の理想を実現しようと努力してきたのである。その結果今のあの市の現状があるのである。現状に照らせば彼らは間違っていたといえるであろう。しかし、市でも都でも県でも国でも、こうすれば必ずうまくいく、などという方法は誰にもわからないのである。首長は選挙で選ばれるが、それはその首長の考えがすべて正しく彼が何もかもを決定する権力を持つと認めることではない。

たとえ今赤字が解消しても、彼が決定したことが今後どう間違った方向に進むかわからない。そうなった時に彼は自分で責任を取るのだろうか?取らないだろう。彼はその時には僕は独裁者ではない、僕はリーダーではあっても最終的な決定は議員によってなされ運営は役人がおこないそれを選んだのは市民だ、そもそも僕を選んだのも市民たちだ、などと言うのは目に見えている。

とりあえず、彼が言っていることでなんとか理解できるのは赤字の削減だけだ。何もかもがそこを目指している。そして私は首長の役目はそれではないと考えている。財政の黒字だけを目指すような運営は必ず失敗すると見ている。

気持ち悪い職場

私が最近仕事をしていた会社はとても気持ち悪い職場だった。みなニコニコしていて、一見和気藹々としているようであった。部屋を歩いていてちょっとぶつかりそうになるとスイマセンとかドウゾとかいって譲り合ったり、今日は寒いねとかこの部屋暑いねとか、たわいもない話をしてニコニコしている。そして一番気持ち悪かったのは彼らがことあるごとにゲームやアニメの話をしていたことだ。やれVITAが発売されただの、ローソンでスライム肉まんが打ってたから買ってきただの、けいおんがどうした、タイバニがどうした・・・それから、彼女とどこへいった、クリスマスに嫁さんにプレゼントをした、彼女があれを買った、嫁さんがあれが欲しいといった、そしてその買ったり欲しいといっているものはみんなゲームなのである。私はいたたまれなくなった。なんなんだこの職場は。いわゆるリア充という連中か。そうか、リア充という人種こそ、アニメやゲームが好きなのだ。私はてっきりリア充というのはゲームやアニメに夢中になって現実では恋人もいない孤独な連中が嫉妬にかられて言っているものだと思っていたが実態はそうではないようだ。

カツカレー

大坂なおみがセリーナウィリアムズを破って優勝した時のインタビューで「カツカレーが食べたい」というのを聞いてから、食べたくなった。 最近はカレーライス自体をほとんど食べることがなかった。 さらにそれにカツが入っているとなると重すぎる。 体調がよく空腹のときに何回か食べ...