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1月, 2012の投稿を表示しています

愛聴盤

"Who's last" The Who

"Empire burlesque" Bob Dylan

"You're under arrest" Miles Davis

"Flogging a dead horse" The Sex Pistols


これらは私がよく聴くミュージシャンのアルバムの中で特に好きな、最高傑作としてもよいと思うアルバムであるが、一般的にはそれ程まで評価されていない。

これらは皆、私がそのアーティストのアルバムで初めて聴いたものである。
初めてなので印象が強烈なのだろうか?

Led Zeppelinはあまり聴かないが、1枚目だけは好きで、それもやはり初めて聴いたものだ。

そして、これらのアルバムはすべてアナログレコードをカセットテープにダビングしてラジカセで繰り返し聴いていた。

LNT仮説

LNT(Linear Non-Threshold)仮説をめぐって、twitter上で私の敬愛する先生がケンカをしておられた。
先生は喧嘩っ早いのでまたかとため息をついていたが、今回は先生の怒りが尋常ではなく、
また私も何が真相なのかがよくわからないので、この場で整理してみることにする。


まず、私は今回のケンカについて、おそらくお互いに主張したいことが違っていて、それぞれが自分にとってはどうでもいい瑣末なことを相手が目くじら立てて怒っている、と考えて、その「瑣末なこと」について説明することをしないため、いつまでも誤解が解けないのだと思う。そのような誤解をさせた言葉足らずな表現をしたことも、それを鬼の首をとったかのように指摘するのも、どちらも大人げない態度だ。そう思って私はLNT仮説についていろいろな話を読んだのであるが、「被曝量に安全な閾値はないという仮説」であるという以外のことがよくわからない。


先生が指摘したのは、「100msv」



ケネディ暗殺について

ケネディ暗殺の犯人として、運転手を疑う人がいることを初めて知った。狙撃犯が致命傷を負わせることができなかったため、運転手が右手でハンドルを持ち、半身になって左手に持ったピストルで自分の右肩越しに後ろにいたケネディの頭部を撃ったというのである。

youtubeにそのように見える映像があったが、何回か見るうちにそれは助手席(画面の手前側)に座っている男性の頭部に光があたってピストルのような形に見えるだけだということがわかった。

そもそもあんな衆人環視の状況で運転手が撃つあるいは彼に撃たせるなどということがあるはずがない。

この暗殺の真犯人については諸説あるが、私は今ではオズワルドの単独犯行説が一番あり得るような気がしてきた。

とにかく、この暗殺は派手すぎるのだ。衆人環視の中、大統領が頭を撃ち抜かれ、その後犯人とされた男がテレビ中継中に撃ち殺される。

これらがみな陰謀によるものであるとしたら、あまりに派手すぎるのである。こんなに派手に暗殺しその犯人をも消し去ることになんのメリットがあるのか。

誰が黒幕であるにしても、あまりに派手すぎる。そしてうまく行き過ぎている。これは誰の意図でもなく、個々の人間が何も考えずに短絡的に行動した結果であると考えるのが一番しっくり来る。

以前にも一度書いたがもう一度書く。2039年に真実が公開されるといわれているが、それはあくまでも今公開されていない情報が公開されるというだけであり、それによって真犯人が判明するとは限らない。そもそも、もし真犯人が判明するような情報であるなら、2039年を待たずに公開されなければならないし、それがCIAや軍部などの陰謀であるということなら、未来永劫公開されないであろう。

「現代思想」に対する不信

ジュンク堂へ行って浅田彰の「構造と力」、「逃走論」と、あと一冊近くにあったのを一冊買ってきた。

私がちらっと読んだのは、「逃走論」の最初の文章で、「スキゾとパラノ」という区別であった。スキゾは微分しパラノは積分するということを言っていた。

私はおそらくこの本を近所にあった図書館で、有名な本だったから、立ち読みしたのだと思う。そして、今読んでもそうだけど、その明らかにふざけている、何か悲壮な覚悟を負って真実を追究しようあるいは世間の誤解を解こうというものではなく、皆が当たり前だと思っていることに疑問を呈して、困った顔をさせておもしろがろうとする意図が見えたので、私は先を読まなかった。

あれからもう20年近くたったが、いまだにキーワードとして、マルクス、構造主義、近代、貨幣、資本主義、などが取りざたされている。そして、いまだに、どうやら正解が出ていないと言うことも感じられる。

最近話題になることの多い東浩紀氏が、「動物化するポストモダン」を書いたときに、浅田氏が自分の著書が古くなったとコメントしたと言う。

20年位前、確かに私も「構造主義」「ソシュール」などのキーワードに興味を持ったことがあったが、とにかく主体的に積極的に価値を提示せずにとにかくかき回し混乱させるような姿勢にしか見えなかった。それは私のもっとも憎むものであった。

「逃走論」という本は、まとまったひとつの文章ではなく、雑誌に掲載されたほとんど世間話のようなものから、対談などを集めた雑多な本であった。その対談の相手は、私が先日読んだ「貨幣進化論」を書いた岩井克人氏、そして私の中では生粋のマルキスト、柄谷行人氏であった。

タイトルが「マルクス・貨幣・言語」であったので、3人の対談を興味深く読んでみたが何を言っているのか何を言いたいのかはさっぱりわからない。わかったことは、マルクスが言ったことはどうとでもとりようのあることだ、ということだけだった。

「貨幣」とはなんなのか。「利益」とはなんなのか。それをいまだに誰も明言・断定できない。


浅田氏はまた、逃走論で、「ゲイ」について言及していた。
私はいつも、「現代思想」というもにはどうして同性愛者がつきまとうのかが不思議でならない。
彼の言う「ゲイ」は単なる男を愛する男と言うような同性愛者のことではないようだが、それにしても、私は自分の性というものが、自分の主義や思想やらでどうにかなる…

いろいろな思考

微分的思考と積分的思考ということを昔聞いたことがあって、最近それについて思い出して検索してみると、いろいろな人がそのことを語っていたが非常に単純で、「一時的な状態を考えるか結果の累積を考えるかの違い」のようにしか考えていないひとばかりである。

私が昔聞いたときには、そんなつまらないことではなかった。確か、浅田彰が言っていたと思う。

もっと抽象的な考え方を言うのであって、微分的思考というのは、物事を分析し続けるようなもの、積分思考は、・・・よく覚えていない。

「速度」と「距離」というのが微分・積分の一番わかりやすい考え方の例だという説明があったが、そういってしまうととたんにつまらなくなる。「貸借対照表が微分、損益計算書が積分」とか。


たとえば、今私の目の前に時計がある。目覚まし時計である。電波式で時刻を修正する機能がある。アナログ時計である。暗くなると秒針が止まるのでコチコチという音がしない。
私の言う「微分的思考」というのはこういうことである。「微分」じゃないのかもしれないが、だったら呼び方を変えてもいい。「分析的思考」だろうか。

その逆は、時計にもいろいろある。腕時計、デジタル時計。また、私の部屋にあるこの時計と同じ型の時計が日本のどこかで誰かが使用している。今も生産され続けているだろうか。この時計を設計したのはどんな人だろうか。・・・というような考え。


一個の時計を見た時に、そこにあるその時計について考えるのか、時計というもの、時計という概念を考えるのか。


以前、ちょっと実存主義とは何か、ということを調べたことがあったのだが、簡単に言うと、実存主義というのは一般概念は実在せず個々の存在から抽象化されたものである、というようなことだと理解した。その例が、サルトルが言っていた、「ユダヤ人という概念は実在せず、一人一人の人間が存在するだけだ」というような言葉である。


また、「英語は冠詞だ」という本を読んでとても参考になったのだが、英語では名詞が単数か複数かを必ず意識する。「an apple」なのか「apples」なのか。日本語ではわざわざ一個のリンゴとかリンゴ複数などとは言わない。この単数複数というのは、たんに一個なのかたくさんなのか、という意味だけではない。「an apple」というときは、話者の目の前にあるいは今思い出している情景の中に存在する特定のリンゴを意味する。「apple…

お客様

先日、「資本主義とはポリシーでなく状態である」ということを書いた。これは我ながらよく気づいたというかうまく整理できたと思う。

私がブログなどを書く時はいつもそうなのだが、これは頭の中で思いついてコレダ!と思って書き付けたのではない。書く前はもやもやと形はなかったものが、書いていくうちに形になってポロっと出てくるのである。

つまり構想も計画もなく、いきなり書き始めるのである。そして、小説家とか、お笑い芸人とか、映画監督とか、ミュージシャン、画家など、何かを創作する人の話を聞いていると、皆同じようなことを言っているので、多分正しい書き方であると思う。初めから何を書くかがわかっていたら、逆に言うと書く必要はない。よくモーツァルトが天才であることを語るのに、楽譜に訂正の跡がまったくなかった、という事が言われる。「アマデウス」にもそういうシーンがあった。この話を聞くと、モーツァルトの頭の中には曲がすでに完成していてそれをただ書き写すだけだったのか、と思うかもしれない。私も最初はそう思っていた。だが、おそらくそうではない。彼はもちろん作曲しつつ楽譜を書いていったのだ。創作していたのだ。もし、彼の頭の中で作曲が完了していてそれを本当にただ写すだけだったら、むしろその場合の方がミスしやすいのではないだろうか。すでに創作は終わっているのだからただの機械的な作業だ。退屈でしかたなく集中力も続かないであろう。

そして、ここからが肝心なのだが、私はこのことは芸術などの創作に限らないのではないかと考えている。多くの人は、この行き当たりばったりな創作方法はあくまでも芸術作品とか個人のブログのような思い付きの整理みたいな場合にしか適用できないと考えるのではないだろうか。たとえば会社の仕事では失敗の無いようにきっちりと計画して厳密に検討を重ねて慎重に実施する必要がある、と。だが、私はそうは考えない。仕事もやはり、創作と同様、後先考えずに開始し、進めて、終える。

私も社会人になりたてのころは仕事というものは計画に基づいてコツコツと進めるものであると思っていた。しかし、言われたことが撤回されてあと少しで終わるという時に最初からやり直したり、ひどい時にはやったことが不要になったりした。それが何度も何度も繰り返され、私はこの会社はひどいところだ、この上司は能無しだと思っていたが、その後いろんな職場でいろんな上司…

資本主義とは状態にすぎない

日経新聞の「やさしい経済学」というコラムで、「貨幣論の系譜」というものが連載されていて、切り抜いて保存してある。「やさしい」と書いてあるくらいだから、大学で経済学を履修した人には常識程度のことなのかもしれないが、私には新鮮な話である。今朝、二人の有名な男が貨幣についてまったく異なった見解を示したという話があった。二人の男とは、アリストテレスとアダム・スミスである。アリストテレスは、貨幣とは「共同体の合意や国家の法律の産物である(貨幣法制説)」と考え、スミスは「多くの人が欲望する商品だから貨幣となる(貨幣商品説)」と考えたそうだ。私はアリストテレスと似た考え方だ。貨幣というものは、それがあると便利であるから使用され、その価値は管理する必要があり実際にされている、と考えていた。しかし、かつて「金本位制」というものが存在しさらに現在はそれがなくなっていて、貨幣価値というのは取引をする2者間で合意さえすればよく、貨幣そのものに価値があるのではないということを知って、貨幣の本質というのはスミス的な考えの方が正しくあらわしているのだと考えるようになっていた。しかし今朝、アリストテレスという強い味方を見つけて、自分が持っていた「貨幣法制説」的な考えをもう一度見直したくなった。

これも今朝の日経だが別のページで、あるIT企業の若い社長が彼が携わる産業が「日本で雇用を生み税収を増やせる数少ない産業である」と述べているのを読んだ。これは事実なのかもしれないが、私はこのような考え方にどうしてもなじめない。産業というものは需要があって生まれるものであり、その結果として雇用や税収が増加するのであって、「雇用や税収を増加させるために産業を興す」という考え方はいってみれば「動機が不純」に思えてならないのだ。要するに彼の言っていることは、「国益になる」ということなのだろう。ただのカネ儲けではなく、自分がカネ儲けすることによってそれが国益にもなるということで社会貢献をしていると考えているのだろう。だが私はそれをすばらしいこととは考えない。企業というものは自身の利益の増大をひたすら目指せばよいのだ。税金というのはいわば国家や地方自治体に支払う手数料のようなものだ。国家や地方自治体が治安を維持し国や県などを運営してくれているから商売ができる、そのために支払うだけだ。産業が興ればカネや人が動く。そのために…

悪人は死ぬべきか

私はオウム事件に非常に衝撃を受けた。多くの人が彼らに怒りを覚えているだろう。十数人の死刑が確定している。だが、多分私が受けた衝撃と一般の人が受けた衝撃そして怒りは違うものだ。

私があの事件で衝撃を受けたのは、「この世で善行を積まず悪事を働く人間は殺してあげた方がその人の為である」という思想についてである。

「ポア」とか、ヴァジラヤーナサッタ?とかいうものである。

「人はこの世に修行するために生まれてきて、死後に行くところは生前の行いによって決まる」という考えは特に珍しくなく、よく聞くものである。
それ自体はなるほどね、フーンと言うくらいでそんなのおかしい、と怒るようなことではないが、それが本当なら先ほど述べた、「悪人は殺してやったほうがいい」という考えも正当化される。

「ポア」された人のやっていたことが善か悪かというのも問題である。
たとえば殺人は皆悪事だと言うだろうが、家族などが襲われそうになったときに殺人者と戦って殺すような場合は正当防衛と言って単なる殺人とは区別される。

オウム真理教のポアも、彼らに言わせれば同じような理屈を言うだろう。要するに、われわれと彼らでは、善悪の基準が異なるのである。

オウム真理教の信者たちが引き起こした事件、拉致殺害、サリン噴霧などについては誰もが間違いなく悪であると、悪いことであると認めるだろう。だが、そんなことであっても、裁判を行って何年も、20年近くもかけて、ようやく悪であることが認められるのである。

そして実行犯や首謀者達は死刑になろうとしている。

この死刑と、彼らがおこなったポアと、何が違うのだろうか?

懲役は更生という目的があるが、死刑によって罪人はどうなるものと考えられているのか?
単に社会にとって有害で不利益な存在であるから殺害という社会からの抹殺処分として行われているのか?まさか、死んだ方が彼らにとって幸せだということで殺しているのではあるまい。


「悪いことをしたら罰を受けるのは当たり前だ」という言葉があるが、これはオウム真理教のポアの思想と全く同じくらい、根拠のない考えである。

死刑を除き、日本で(ほかのほとんどの国でも)罪を犯して懲役を受けるのは文字通り「懲らしめ」の為であるのか?それなら、まさに「目には目を」のように、犯人に苦痛を与えるなり刺青をいれるとか指を落とすとかすべきではないか?そういうことをしていた時代や国もあったようである…

調子に乗ってる彼

今関西地方のある地方公共団体の首長の言動が話題になっている。私は彼が具体的に何をめざしているのか詳しいことはよくわからない。ただひとつ言えるのは彼の言動が不愉快極まりないということだ。彼が何かを言うときに必ずだれかをけなし、ひとでなしの諸悪の根源であるかのように言う。それがひとりやふたりではない。何かするとき、何か言うときに敵対するものはすべてそのように扱うのである。彼がまだ一介の弁護士兼タレントであった時に、申告漏れだかなんだか忘れたが、彼について週刊誌に書かれたことについて彼のブログで2ちゃんねるでしか見られないような汚い言葉で感情的に記者をけなしているのを読んで、なんかヘンな奴だなと軽蔑したのを覚えている。彼が出演する番組はよく見ていて確かに弁舌が達者ではあるが笑わせようとする話では全く笑えず彼に突っ込む司会者によってやっと笑いが成立していた。

彼がかなり過激な、急進的というのか、改革をすすめていることはニュースなどでもチラホラ聞いていた。そしてある時、インターネットで関西でしか放送されない番組で彼が例によってある人間をクソミソにけなしている動画を見た。その時彼は、いかに自分が首長を勤める地方自治体が腐敗していてその腐敗した組織を立て直すには生半可なことではできないかを力説していた。彼ははっきりと「暴力的にならざるを得ない」と言っていた。

たとえば役人の給与が高すぎるとか、財政赤字が増加し続けているとか、確かに明らかにおかしいと言えることがあるのだろう。鉄道やらバスやらを民営化するとか言う話の中で彼は「市民全員が幸福になるようなことは一介の市長ではできない、それにしては市長の給与は安すぎる」などと言っていた。私はこの言葉についても非常に不愉快なものを感じた。政治に携わるものが、その報酬について安いなどと言った人間をいままでみたことがない。では報酬が高ければもっとよい仕事をするのか?報酬に照らし合わせて自分の政策を変えるのか?

彼は確かに今まで誰もできなかった改革をしようとしているのかもしれない。それくらいのエネルギーと知恵を持っているのかもしれない。でも、彼が今やろうとしていることは自分の理想を推し進めることだ。彼ははっきり暴力的という言葉を使った。彼は自分の政策に従わないものを解雇するというような発言をしたのも覚えている。

私は彼の政策ひとつひとつの是非をとやかく…

気持ち悪い職場

私が最近仕事をしていた会社はとても気持ち悪い職場だった。みなニコニコしていて、一見和気藹々としているようであった。部屋を歩いていてちょっとぶつかりそうになるとスイマセンとかドウゾとかいって譲り合ったり、今日は寒いねとかこの部屋暑いねとか、たわいもない話をしてニコニコしている。そして一番気持ち悪かったのは彼らがことあるごとにゲームやアニメの話をしていたことだ。やれVITAが発売されただの、ローソンでスライム肉まんが打ってたから買ってきただの、けいおんがどうした、タイバニがどうした・・・それから、彼女とどこへいった、クリスマスに嫁さんにプレゼントをした、彼女があれを買った、嫁さんがあれが欲しいといった、そしてその買ったり欲しいといっているものはみんなゲームなのである。私はいたたまれなくなった。なんなんだこの職場は。いわゆるリア充という連中か。そうか、リア充という人種こそ、アニメやゲームが好きなのだ。私はてっきりリア充というのはゲームやアニメに夢中になって現実では恋人もいない孤独な連中が嫉妬にかられて言っているものだと思っていたが実態はそうではないようだ。