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「現代思想」に対する不信

ジュンク堂へ行って浅田彰の「構造と力」、「逃走論」と、あと一冊近くにあったのを一冊買ってきた。

私がちらっと読んだのは、「逃走論」の最初の文章で、「スキゾとパラノ」という区別であった。スキゾは微分しパラノは積分するということを言っていた。

私はおそらくこの本を近所にあった図書館で、有名な本だったから、立ち読みしたのだと思う。そして、今読んでもそうだけど、その明らかにふざけている、何か悲壮な覚悟を負って真実を追究しようあるいは世間の誤解を解こうというものではなく、皆が当たり前だと思っていることに疑問を呈して、困った顔をさせておもしろがろうとする意図が見えたので、私は先を読まなかった。

あれからもう20年近くたったが、いまだにキーワードとして、マルクス、構造主義、近代、貨幣、資本主義、などが取りざたされている。そして、いまだに、どうやら正解が出ていないと言うことも感じられる。

最近話題になることの多い東浩紀氏が、「動物化するポストモダン」を書いたときに、浅田氏が自分の著書が古くなったとコメントしたと言う。

20年位前、確かに私も「構造主義」「ソシュール」などのキーワードに興味を持ったことがあったが、とにかく主体的に積極的に価値を提示せずにとにかくかき回し混乱させるような姿勢にしか見えなかった。それは私のもっとも憎むものであった。

「逃走論」という本は、まとまったひとつの文章ではなく、雑誌に掲載されたほとんど世間話のようなものから、対談などを集めた雑多な本であった。その対談の相手は、私が先日読んだ「貨幣進化論」を書いた岩井克人氏、そして私の中では生粋のマルキスト、柄谷行人氏であった。

タイトルが「マルクス・貨幣・言語」であったので、3人の対談を興味深く読んでみたが何を言っているのか何を言いたいのかはさっぱりわからない。わかったことは、マルクスが言ったことはどうとでもとりようのあることだ、ということだけだった。

「貨幣」とはなんなのか。「利益」とはなんなのか。それをいまだに誰も明言・断定できない。


浅田氏はまた、逃走論で、「ゲイ」について言及していた。
私はいつも、「現代思想」というもにはどうして同性愛者がつきまとうのかが不思議でならない。
彼の言う「ゲイ」は単なる男を愛する男と言うような同性愛者のことではないようだが、それにしても、私は自分の性というものが、自分の主義や思想やらでどうにかなるものではない、という事については言い争うのもバカらしいくらい、当然のことである。


自分の性について否定して自分で別の性を選択する、というようなことは何かの皮肉とか、言葉遊びとかで言うのならニヤニヤして聞いていられるが、それに基づいて法律まで変えようとしたり、実際に肉体を改造しようとしたり、というのを見ると、やはり狂気や精神あるいは心理の疾患であるとしか思えない。


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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。