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2012年1月18日水曜日

「現代思想」に対する不信

ジュンク堂へ行って浅田彰の「構造と力」、「逃走論」と、あと一冊近くにあったのを一冊買ってきた。

私がちらっと読んだのは、「逃走論」の最初の文章で、「スキゾとパラノ」という区別であった。スキゾは微分しパラノは積分するということを言っていた。

私はおそらくこの本を近所にあった図書館で、有名な本だったから、立ち読みしたのだと思う。そして、今読んでもそうだけど、その明らかにふざけている、何か悲壮な覚悟を負って真実を追究しようあるいは世間の誤解を解こうというものではなく、皆が当たり前だと思っていることに疑問を呈して、困った顔をさせておもしろがろうとする意図が見えたので、私は先を読まなかった。

あれからもう20年近くたったが、いまだにキーワードとして、マルクス、構造主義、近代、貨幣、資本主義、などが取りざたされている。そして、いまだに、どうやら正解が出ていないと言うことも感じられる。

最近話題になることの多い東浩紀氏が、「動物化するポストモダン」を書いたときに、浅田氏が自分の著書が古くなったとコメントしたと言う。

20年位前、確かに私も「構造主義」「ソシュール」などのキーワードに興味を持ったことがあったが、とにかく主体的に積極的に価値を提示せずにとにかくかき回し混乱させるような姿勢にしか見えなかった。それは私のもっとも憎むものであった。

「逃走論」という本は、まとまったひとつの文章ではなく、雑誌に掲載されたほとんど世間話のようなものから、対談などを集めた雑多な本であった。その対談の相手は、私が先日読んだ「貨幣進化論」を書いた岩井克人氏、そして私の中では生粋のマルキスト、柄谷行人氏であった。

タイトルが「マルクス・貨幣・言語」であったので、3人の対談を興味深く読んでみたが何を言っているのか何を言いたいのかはさっぱりわからない。わかったことは、マルクスが言ったことはどうとでもとりようのあることだ、ということだけだった。

「貨幣」とはなんなのか。「利益」とはなんなのか。それをいまだに誰も明言・断定できない。


浅田氏はまた、逃走論で、「ゲイ」について言及していた。
私はいつも、「現代思想」というもにはどうして同性愛者がつきまとうのかが不思議でならない。
彼の言う「ゲイ」は単なる男を愛する男と言うような同性愛者のことではないようだが、それにしても、私は自分の性というものが、自分の主義や思想やらでどうにかなるものではない、という事については言い争うのもバカらしいくらい、当然のことである。


自分の性について否定して自分で別の性を選択する、というようなことは何かの皮肉とか、言葉遊びとかで言うのならニヤニヤして聞いていられるが、それに基づいて法律まで変えようとしたり、実際に肉体を改造しようとしたり、というのを見ると、やはり狂気や精神あるいは心理の疾患であるとしか思えない。