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2012年1月12日木曜日

資本主義とは状態にすぎない

日経新聞の「やさしい経済学」というコラムで、「貨幣論の系譜」というものが連載されていて、切り抜いて保存してある。「やさしい」と書いてあるくらいだから、大学で経済学を履修した人には常識程度のことなのかもしれないが、私には新鮮な話である。今朝、二人の有名な男が貨幣についてまったく異なった見解を示したという話があった。二人の男とは、アリストテレスとアダム・スミスである。アリストテレスは、貨幣とは「共同体の合意や国家の法律の産物である(貨幣法制説)」と考え、スミスは「多くの人が欲望する商品だから貨幣となる(貨幣商品説)」と考えたそうだ。私はアリストテレスと似た考え方だ。貨幣というものは、それがあると便利であるから使用され、その価値は管理する必要があり実際にされている、と考えていた。しかし、かつて「金本位制」というものが存在しさらに現在はそれがなくなっていて、貨幣価値というのは取引をする2者間で合意さえすればよく、貨幣そのものに価値があるのではないということを知って、貨幣の本質というのはスミス的な考えの方が正しくあらわしているのだと考えるようになっていた。しかし今朝、アリストテレスという強い味方を見つけて、自分が持っていた「貨幣法制説」的な考えをもう一度見直したくなった。

これも今朝の日経だが別のページで、あるIT企業の若い社長が彼が携わる産業が「日本で雇用を生み税収を増やせる数少ない産業である」と述べているのを読んだ。これは事実なのかもしれないが、私はこのような考え方にどうしてもなじめない。産業というものは需要があって生まれるものであり、その結果として雇用や税収が増加するのであって、「雇用や税収を増加させるために産業を興す」という考え方はいってみれば「動機が不純」に思えてならないのだ。要するに彼の言っていることは、「国益になる」ということなのだろう。ただのカネ儲けではなく、自分がカネ儲けすることによってそれが国益にもなるということで社会貢献をしていると考えているのだろう。だが私はそれをすばらしいこととは考えない。企業というものは自身の利益の増大をひたすら目指せばよいのだ。税金というのはいわば国家や地方自治体に支払う手数料のようなものだ。国家や地方自治体が治安を維持し国や県などを運営してくれているから商売ができる、そのために支払うだけだ。産業が興ればカネや人が動く。そのためにはそれを支えるインフラが必要になる。だから税金を支払う。この「税金とは何か」ということについても諸説あるようだが、諸説あるということは誰にもわからないということでもある。貨幣とは何か、税金とは何か、商売とは何か、労働とは何か、ということについては誰も決定的な事は言えないようであるが、ひとつ言える事は、「現状はこうなっている」ということを述べる者と、「本来はこういうものであった」あるいは「こうあった方がより良い」ということを述べる者がいる、ということである。
スミスは前者であり、アリストテレスは後者である。多くの経済学者は前者である。経済学者にもいろいろあるようだが、おおむね自由放任がよい結果をもたらすという考えの人が多いように思う。

最近、「資本主義の限界が見えた」「資本主義が破綻しつつある」というような言葉もよく見かける。ソ連が崩壊してベルリンの壁が崩れた頃には「やはり社会主義は間違っていて資本主義が正しかった」というように考えた人が多かったはずだ。私もそうであった。しかし、私は「資本主義」という言葉についてもずっと違和感がある。それは、そもそも「主義」というのは「かくあるべし」という信念のようなものを意味するものであるが、「資本主義」というのは、ただ人々が自由に、誰の指図もうけず管理もされず欲望の赴くままに経済活動をするシステムであって、目指すべき理想も何もないからだ。「資本主義」というのは社会を豊かにしようとか国益を増大させようとか人類を幸福にしようという目的のもとに考え出されたものではなく、人々がそれぞれ自己の利益を増大させようと考えた結果として生まれたシステムにすぎないのだ。「共産主義」というのは、そういう意味では「主義」であると納得できる。ただし共産主義の考え方自体には賛成できない。「日本やアメリカは資本主義を採用している」という言い方を見ることがあるが、私に言わせるとそれは間違いで、経済について特定の主義を持たず放任しているだけである。何もしないのが「資本主義」なだけであって、「ウチは資本主義でいきましょう」と考えて実行しているわけではない。だから「資本主義が破綻した」というのは、「ほったらかしにしていてはいけない」という事である。では共産主義や社会主義を導入するのかというと、そんな単純な人もほとんどいない。

行き着くところは、「現状描写派」と「あるべき論派」の対立ではないだろうか。資本主義というのは現状描写派である。これはいいとか悪いとかではなく、ほっといたらこうなっていてうまくいっているからこれでいいのだ、という考え。共産主義や軍事独裁などは「あるべき論派」である。つまり、「資本主義」と「共産主義」というのはそもそも観点が違うので、比較にならないのである。


「神の見えざる手」と言う言葉があるが、国富論では単に「invisible hand」としか書かれていない。そしてこれは断じて神の手などではない。神というものがこのようなものだと考えている人は無神論者である。「自分が儲けようという利己心が社会全体に利益をもたらす」というのは単なる必然である。水が低きに流れるような、物理法則のようなものだ。神とは法則を作ったものであって法則そのものではない。さらに、この商人の行動は「主義」ではない。ただ儲けよう、自分の利益を増そうという利己心の「結果」にすぎない。「資本主義が間違っている」という事は、人間の欲望を否定するに等しい。


ではわれわれはどうすればよいのか。人間の欲望が醜く間違ったものであるとわかったなら、戦争でも起こして破滅すべきなのか。

私は答えを持っている。私も、人間の欲望は根本的に間違ったものであると考えている。「性悪説」と言ってよい。ただし、だからといってその存在を否定するものでもない。「生まれつき悪人であるが、生きていかざるを得ない」という考えだ。国家や社会をうまく運営するための正解など存在しない。その時その時の不具合を修正することを繰り返すのみだ。経済を放任してうまくいかないなら管理する。管理しすぎて発展しないならそれを緩める。それを繰り返すことによって徐々に世界を良くしていく。大切なのは「良くしていく」という考えである。何度もいうが「資本主義」とか「自由」というのは単なる「状態」、「結果」にすぎないので、「資本主義ならうまくいく」「自由にすればうまくいく」というのは間違っている。




なんだか興奮して長々と書いてしまった。少し結論を急ぎすぎたり深く考えずに書いてしまったこともある。関連する本を買ってきたので読んでからまた考えを整理しよう。