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お客様

先日、「資本主義とはポリシーでなく状態である」ということを書いた。これは我ながらよく気づいたというかうまく整理できたと思う。

私がブログなどを書く時はいつもそうなのだが、これは頭の中で思いついてコレダ!と思って書き付けたのではない。書く前はもやもやと形はなかったものが、書いていくうちに形になってポロっと出てくるのである。

つまり構想も計画もなく、いきなり書き始めるのである。そして、小説家とか、お笑い芸人とか、映画監督とか、ミュージシャン、画家など、何かを創作する人の話を聞いていると、皆同じようなことを言っているので、多分正しい書き方であると思う。初めから何を書くかがわかっていたら、逆に言うと書く必要はない。よくモーツァルトが天才であることを語るのに、楽譜に訂正の跡がまったくなかった、という事が言われる。「アマデウス」にもそういうシーンがあった。この話を聞くと、モーツァルトの頭の中には曲がすでに完成していてそれをただ書き写すだけだったのか、と思うかもしれない。私も最初はそう思っていた。だが、おそらくそうではない。彼はもちろん作曲しつつ楽譜を書いていったのだ。創作していたのだ。もし、彼の頭の中で作曲が完了していてそれを本当にただ写すだけだったら、むしろその場合の方がミスしやすいのではないだろうか。すでに創作は終わっているのだからただの機械的な作業だ。退屈でしかたなく集中力も続かないであろう。

そして、ここからが肝心なのだが、私はこのことは芸術などの創作に限らないのではないかと考えている。多くの人は、この行き当たりばったりな創作方法はあくまでも芸術作品とか個人のブログのような思い付きの整理みたいな場合にしか適用できないと考えるのではないだろうか。たとえば会社の仕事では失敗の無いようにきっちりと計画して厳密に検討を重ねて慎重に実施する必要がある、と。だが、私はそうは考えない。仕事もやはり、創作と同様、後先考えずに開始し、進めて、終える。

私も社会人になりたてのころは仕事というものは計画に基づいてコツコツと進めるものであると思っていた。しかし、言われたことが撤回されてあと少しで終わるという時に最初からやり直したり、ひどい時にはやったことが不要になったりした。それが何度も何度も繰り返され、私はこの会社はひどいところだ、この上司は能無しだと思っていたが、その後いろんな職場でいろんな上司や顧客を見ていくうちに、仕事とはそういうものなのだ、と理解するようになった。

私はこのやり方が正しいと信じているが、最近このやり方で苦労をするようになった。特に若い人と一緒に仕事をすると、私のやり方についてこれないのである。若い人というのは経験不足であるし依存性も強いので、上司や先輩の言われたことをそのままやろうとする。この時に、先輩として若者を育てる方法は二つある。ひとつは、最初なので細かく指導しとにかく覚えさせ、だんだん指導を減らしていって最終的にひとり立ちさせる方法。もうひとつは、指導はそこそこにしてとにかくやらせてて失敗させつつ体で覚えさせるやり方。

若者はほぼすべての人は前者を望む。また、育てる側も前者が理想と考えている人が多いようだ。後者の体当たり式が適用されることがあってもそれは育てる側が忙しかったり育てる気がなかったり単にめんどくさかったり、ひどい時にはイジメ感覚でおこなわれることもある。

だが私は今まで数々の職場で様々な人間を見てきて、手取り足取り教わって成長していった人間など見たことがない。私が言っているのは役職がつくとか給与が増えるとかの単なる「出世」のことではない。能力がある人は「出世」しやすいだろうが、出生しているから能力があるとは限らない。職場には、誰が見てもこの人がいないと回らないと言うキーパーソンがいるだろう。それは組織上のリーダーであるとは限らない。リーダーはもちろん重要であるが、実際に問題にぶつかり解決していくのは特に今の日本の会社ではリーダーではない。

私が「成長」といっているのは、社会人になりたての若者がそのようなキーパーソンになることを言っている。そのような成長は、どんなに教えても教えられるものではなく、むしろ教えすぎると何も考えなくなって成長しない。


誤解して欲しくないのは私のやり方はいわゆる丸投げとか放任と呼ばれるものではない。私は仕事をするのに十分ではないとわかりつつ、仕事を託す。しかしそれは面倒だからでも成長させるためでもない。仕事を依頼する相手に切り開いて欲しいからだ。仕事のゴールは決まっていても方法はひとつではない。また、ゴールもあくまでも暫定で、途中で変わるかもしれない。

このやり方で戸惑う人には、あるモノが欠けている。それは勤勉さでも組織に対する忠誠でもない。顧客の意識である。顧客とは取引先ではない。自分がしている仕事によって提供される製品あるいはサービスの利用者のことである。それがわかっていれば、ゴールはおのずと定まる。上司や先輩として教えるべきなのは、誰が顧客であるかということくらいである。


しかし、若者は、特に私が最近接した幾人かの若者は、顧客というものをまず意識しない。会社に対する忠誠心はすさまじいのに、その会社の顧客についてはまったくといっていいほど意識がない。むしろ敵視している。あくまでも、上司や先輩が言うから、顧客を重んじるようなフリをするだけである。

顧客のことを思え、などというのは、教えられるものではない。これは命令して思わせるようなものではない。これがない人間には何も根付かないだろう。



このブログの人気の投稿

死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。