スキップしてメイン コンテンツに移動

悪人は死ぬべきか

私はオウム事件に非常に衝撃を受けた。多くの人が彼らに怒りを覚えているだろう。十数人の死刑が確定している。だが、多分私が受けた衝撃と一般の人が受けた衝撃そして怒りは違うものだ。

私があの事件で衝撃を受けたのは、「この世で善行を積まず悪事を働く人間は殺してあげた方がその人の為である」という思想についてである。

「ポア」とか、ヴァジラヤーナサッタ?とかいうものである。

「人はこの世に修行するために生まれてきて、死後に行くところは生前の行いによって決まる」という考えは特に珍しくなく、よく聞くものである。
それ自体はなるほどね、フーンと言うくらいでそんなのおかしい、と怒るようなことではないが、それが本当なら先ほど述べた、「悪人は殺してやったほうがいい」という考えも正当化される。

「ポア」された人のやっていたことが善か悪かというのも問題である。
たとえば殺人は皆悪事だと言うだろうが、家族などが襲われそうになったときに殺人者と戦って殺すような場合は正当防衛と言って単なる殺人とは区別される。

オウム真理教のポアも、彼らに言わせれば同じような理屈を言うだろう。要するに、われわれと彼らでは、善悪の基準が異なるのである。

オウム真理教の信者たちが引き起こした事件、拉致殺害、サリン噴霧などについては誰もが間違いなく悪であると、悪いことであると認めるだろう。だが、そんなことであっても、裁判を行って何年も、20年近くもかけて、ようやく悪であることが認められるのである。

そして実行犯や首謀者達は死刑になろうとしている。

この死刑と、彼らがおこなったポアと、何が違うのだろうか?

懲役は更生という目的があるが、死刑によって罪人はどうなるものと考えられているのか?
単に社会にとって有害で不利益な存在であるから殺害という社会からの抹殺処分として行われているのか?まさか、死んだ方が彼らにとって幸せだということで殺しているのではあるまい。


「悪いことをしたら罰を受けるのは当たり前だ」という言葉があるが、これはオウム真理教のポアの思想と全く同じくらい、根拠のない考えである。

死刑を除き、日本で(ほかのほとんどの国でも)罪を犯して懲役を受けるのは文字通り「懲らしめ」の為であるのか?それなら、まさに「目には目を」のように、犯人に苦痛を与えるなり刺青をいれるとか指を落とすとかすべきではないか?そういうことをしていた時代や国もあったようであるが、現在はそのような事はされない。罪人はただ法律にしたがって裁かれるだけで、人として何の欠陥を宣告されるわけでもない。むしろ、何か欠陥がある場合は無罪になりさえする。

逮捕され、起訴され、有罪判決を受けた人が軽蔑されるのは、あくまでも人の感情や信条によるものである。

私もそうであるが、多くの人が、何かひどいことをした人、みっともないこと、ずるいこと、卑怯なことなどをしたのを見た時に『こんな奴死ねばいい』と思ったことがあるだろう。

凶悪な殺人犯などが死刑になったときに『当然だ』と思うだろう。死刑にならなかったら、『何でこんなひどいことをして死刑にならないんだ』と憤ることさえある。


私が衝撃を受けたのは、オウム真理教の犯罪はそのわれわれがいつも抱いている善悪とその報いの思想を、「無邪気」に実行してしまったことに対してである。

そう、私は彼らに「無邪気さ」を感じた。「悪いことをした奴は死んでしまえ」というのは子供の発想である。普通の大人はそんな考えを持たなくなるが、それは自分に人を裁いたり殺す資格がないことに気づくからであって、その考え自体を否定するからではない。



私たちが心の中で、あるいは誰にも聞こえないときには口に出して『こんな奴死んじまえ』と言うが本当に殺したりしないのは、別に理性が制御しているわけでもなく、悪人だからといって命まで奪われることはない、と考えているのでもなく、その人がやった『悪事』が、本当に悪なのかを確信できないからではないのか。

われわれは誰もがきっと、「私は善悪の基準を知らない、何が正しくて何が間違っているかは私には判断できない」と言うだろう。

では、それがわかる人がいるだろうか?もしくは、修行でもいい、勉強でもいい、人類史上最高のIQを持ち、人格もすばらしい聖人のような人間が現れたとして、そんなことはありえない、ということはおいておいて、仮定として、そのような完璧な善悪をわきまえた人物が現れたら、その人は悪人をどうするだろうか?片っ端から死刑にしていくだろうか?

・・・おそらく、しないであろう。多くの人がそう思うのではないだろうか。だから、オウム真理教がやったことに対して怒ったのである。われわれが怒ったのは、間違った善悪の基準に対してではない。その基準が正しいかどうかはさておき、殺すというのはひどい、という理由である。

私もそうだと思う。完璧な人間がこの世に降り立ったら、悪人を裁いて殺しまくるようなことはないだろうと思う。


私は死刑には反対なのだが、いつごろからそう考えるようになったのかよく覚えていない。オウムの事件の前からだったと思うのだが・・・

というわけで、私はたとえオウム事件の実行犯や首謀者であっても、死刑にすることは賛成か反対かと言われれば反対である。

でも、別に署名運動をして彼らの死刑をやめさせようとか、日本の法律や司法は間違っているなどというつもりもない。まあ、あれだけの事をしたら死刑になるわな・・・と、傍観しているのみである。でも、「あんな悪事をしたのだから死刑を受けるのは当然だ」などということを、公的な立場でコメントするようなことは絶対にできない。

このブログの人気の投稿

死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。