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いろいろな思考

微分的思考と積分的思考ということを昔聞いたことがあって、最近それについて思い出して検索してみると、いろいろな人がそのことを語っていたが非常に単純で、「一時的な状態を考えるか結果の累積を考えるかの違い」のようにしか考えていないひとばかりである。

私が昔聞いたときには、そんなつまらないことではなかった。確か、浅田彰が言っていたと思う。

もっと抽象的な考え方を言うのであって、微分的思考というのは、物事を分析し続けるようなもの、積分思考は、・・・よく覚えていない。

「速度」と「距離」というのが微分・積分の一番わかりやすい考え方の例だという説明があったが、そういってしまうととたんにつまらなくなる。「貸借対照表が微分、損益計算書が積分」とか。


たとえば、今私の目の前に時計がある。目覚まし時計である。電波式で時刻を修正する機能がある。アナログ時計である。暗くなると秒針が止まるのでコチコチという音がしない。
私の言う「微分的思考」というのはこういうことである。「微分」じゃないのかもしれないが、だったら呼び方を変えてもいい。「分析的思考」だろうか。

その逆は、時計にもいろいろある。腕時計、デジタル時計。また、私の部屋にあるこの時計と同じ型の時計が日本のどこかで誰かが使用している。今も生産され続けているだろうか。この時計を設計したのはどんな人だろうか。・・・というような考え。


一個の時計を見た時に、そこにあるその時計について考えるのか、時計というもの、時計という概念を考えるのか。


以前、ちょっと実存主義とは何か、ということを調べたことがあったのだが、簡単に言うと、実存主義というのは一般概念は実在せず個々の存在から抽象化されたものである、というようなことだと理解した。その例が、サルトルが言っていた、「ユダヤ人という概念は実在せず、一人一人の人間が存在するだけだ」というような言葉である。


また、「英語は冠詞だ」という本を読んでとても参考になったのだが、英語では名詞が単数か複数かを必ず意識する。「an apple」なのか「apples」なのか。日本語ではわざわざ一個のリンゴとかリンゴ複数などとは言わない。この単数複数というのは、たんに一個なのかたくさんなのか、という意味だけではない。「an apple」というときは、話者の目の前にあるいは今思い出している情景の中に存在する特定のリンゴを意味する。「apples」という時は、本当に複数のリンゴがある場合にも使うが、「リンゴ一般、りんごというもの」と言う意味で使われる。「Apples are red.」とか。

だから、名詞を単数形で冠詞をつけずに「apple」と言うと、英語を話す人にとってはとても気持ち悪いそうだ。私は実際、帰国子女の人に何の単語だか忘れたが何かを聞かれて単数で冠詞をつけずに答えたら、「a」をつけて訂正されたことがある。


実存主義でいう「人間一般という概念は存在しない」というのも(これはあくまでも私がそうだと理解する実存主義である)、この名詞の単数形に定冠詞をつけないと気持ち悪い、ということと同じではないだろうか?「a man」「men」「man」

「人間は平等」だ、というのは「all men are created equal.」というように複数形で書かれる。

日本語だと「人間」というのが実際に生きている人々をさしているのか、「人間というもの」というある概念をさしているのかがはっきりしない。

英語でも「all men」が実際に生きている大勢の人間をさしているわけではないと言えるかもしれないが、日本語よりは実在の人間をさしている印象がある。なぜなら、英語では実際には使用されないが「man is created equal」という書き方ができるからだ。定冠詞がつかない名詞の単数形はそのもの一般と言う概念を示す、ということがありえたかもしれない。

「不可算名詞」というものもある。私はいまだに不可算と可算の区別が正確にできない。今調べてみたら、「抽象的で漠然としたもの」は不可算名詞となるものがあるそうだ。「man」というのはそうではないので、可算名詞なのだろう。


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死を望む人の死生観

最近は死にたい気持ちがいっそう募ってきた。単なる慣用句また感動詞としての「死にたい」ではなく、本格的な「希死念慮」という奴である。

そしてまた自殺の方法を調べた。恐怖と苦痛が少なく迷惑もかけない死に方はないか・・・。

すると、2ちゃんねるの自殺未遂体験を語るスレッドが見つかった。
以前にもちょっと眺めたことはあるが、じっくり読んでみた。

多いのは薬物とリストカットと足がつく場所での首吊りだった。
失敗した原因は、同居人のいる自宅で遂行した、電話やメールで知人にほのめかすかあるいははっきり宣言して助けられた、恐怖で自殺を思いとどまった、などである。

共通しているのは、すべて自分が死ぬ覚悟ができていなかった、死ぬ恐怖に打ち勝てなかったということである。

自殺の話になるとまず言われるのは「自殺なんかしてはいけない。命は授かりものだ。」という自殺罪悪説である。それから、「自殺未遂なんて本気で死ぬつもりなどないのだ。死にたいのならとっとと死ね」という未遂に対する罵倒。そして、「何があったの?死ぬ前に誰かに相談すれば?生きてればいいことあるよ」という心配。

「自殺は素晴らしい」という人はまずいない。
だが、非常に潔く動機も生活苦などではない場合はそれが賞賛される場合もある。
乃木稀典とか、三島由紀夫とかである。

私はこの2人の自殺にも興味を持っていろいろと調べてみたが、あまり手放しでは賞賛できないような事実をいくつか知った。そして、2人の死について否定的な考えを表明している有名人も大勢いることを知った。



調べれば調べるほど、自殺というのは限りなく困難なもので、ほとんど不可能に近いと思えてくる。
ロープを用意し、山の中まで行って首を入れるところまでいってもやめてしまう人がいる。
薬の大量服用については、本人の意志に関係なく吐いてしまい、まず成功することがない。

未遂に終わった場合、「二度と自殺なんかしない」という人が多いが、中には「今度こそ」と考える人もいる。実際、自殺に成功した人は何度か未遂を繰り返した人が多いそうである。



私は自殺を試み未遂に終わる人たちがすべて本気で死のうとしていないとは思わない。
彼らは本当に絶望していて、生きることは苦痛以外の何物でもなく、死ぬしかないと思っている。
しかし、いざ死のうとすると苦痛と恐怖で思いとどまってしまう。

思いとどまるときに、たと…

グリーン車で横の席に荷物を置く人

私は常磐線で通勤しているのだが、最近朝がつらくて、
グリーン車に乗ることが多い。

私が乗る駅では、グリーン車は窓際はまず埋まっている。

窓際に人がいる隣の通路側の席に座る。


だが、そこにカバンを置いている人が非常に多い。

私はそれがとても頭にくる。というか、その神経が理解できない。


なぜそんなことができるのだろうか?

私は休日にもグリーン車に乗ることがあるが、

ガラガラでもとなりの席に荷物など置いたことはない。

なぜなら、グリーン車は有料だからだ。


距離によるが、550円とか770円とか、ランチが食べられるくらいの料金だ。


まあ、ガラガラであれば、カバンを置いても、私はしないが、まあ許せる。

でも、通勤ラッシュ時で、上野につくころにはほぼ満席になる常磐線のグリーン車で、

隣の席に荷物を置くのは許せない。

その荷物をつかんで放り投げたくなる気持ちを懸命に抑える。


時々、そういう人にむかって、「すいません」と言って席を空けてもらって座る人がいる。

謝るのは荷物を置いている方だろ!


そういうときに、荷物を置いている人が謝るのを見たことがない。

私は、絶対に謝らない。そこまでして座りたくない。


が、そういう人がいると、顔をじっと見る。

そうすると、だいたいどける。



最近わかってきたのだが、この行動は無神経であるとか気が利かないというのではなく、

隣に人を座らせたくないので故意にやっているようだ。


なんという、利己的な行為だろう。私はそういう行為が本当に嫌いだ。


私も、なるべく隣に人がいない席を選ぶ。隣に人が来て欲しくないという気持ちはわかる。

でも、だからって荷物を置いて座らせないようにするなんてことは絶対にできない。

そんなことまでしたくない。


昨日は、隣の席に荷物を置いて寝ている人に、「すいません」と声をかけている人がいたのだが、

寝ている人は2、3度声をかけられても起きなかった。

多分、気づいているのに起きなかったのだろう。



私は振り返って、その人がどんな顔をしているか見た。

年齢は私よりやや上、50歳前後だ。

上着を着ずにワイシャツとスラックスの、ごく普通のサラリーマン風の男性である。


特にバカそうでもズルそうでもダメ人間でもだらしない感じでもない。

でも、そういうごく普通の人間が、このような利己的な行為をするものなのである。

これは静かなる暴力と言ってもいい。


キンタマを掴まれる

この話はツイッターで言いたかったのだが、どうしても「キンタマ」と書く勇気が出なかったのでこっちに書く。

私は猥談が嫌いだ。
猥談なんかしていたのは高校生まで。
わけあって私は一切猥談をしなくなった。
飲み会でもしない。飲み会でそういう話題になると貝になる。

そして、「キンタマを掴まれる」という言葉には性的な意味はない。
それは常識かもしれないがやっぱりキンタマなどという言葉を口にすることははばかられる。
わたしも「キンタマ」などという言葉を思い出したのは久しぶりで、懐かしささえ感じた。

なんで思い出したかというと、夢の中でキンタマを掴まれたからだ。
その夢では、わたしは背後にぴったりと誰かが張り付いているのを感じていた。
それは見えないし、ぴったりではあるがそっとなので気のせいかなと思うくらいだ。
だが、間違いなく張り付いていると確信した。だが、それを自分で払いのけることはなぜかできない。

そこで、近くにいた知り合いと思われる人に、「ちょっとこれはがしてくれない?」と頼んだ。

それを頼んだときに掴まれたのか、その前から掴まれていたのかわからないが、
その背後にはりついていた何者かがわたしのキンタマを掴んでいた。
とても痛かった。その痛みは鋭いものではなく、鈍く、重いものだった。

そして結局背後にいるものがはがされないまま、目が覚めた。
その目が覚める瞬間に、キンタマの痛みもすーっと消えていった。
そして、わたしは「あ、これは自分が作り出している幻覚にすぎないな」ということがわかった。