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2012年1月17日火曜日

いろいろな思考

微分的思考と積分的思考ということを昔聞いたことがあって、最近それについて思い出して検索してみると、いろいろな人がそのことを語っていたが非常に単純で、「一時的な状態を考えるか結果の累積を考えるかの違い」のようにしか考えていないひとばかりである。

私が昔聞いたときには、そんなつまらないことではなかった。確か、浅田彰が言っていたと思う。

もっと抽象的な考え方を言うのであって、微分的思考というのは、物事を分析し続けるようなもの、積分思考は、・・・よく覚えていない。

「速度」と「距離」というのが微分・積分の一番わかりやすい考え方の例だという説明があったが、そういってしまうととたんにつまらなくなる。「貸借対照表が微分、損益計算書が積分」とか。


たとえば、今私の目の前に時計がある。目覚まし時計である。電波式で時刻を修正する機能がある。アナログ時計である。暗くなると秒針が止まるのでコチコチという音がしない。
私の言う「微分的思考」というのはこういうことである。「微分」じゃないのかもしれないが、だったら呼び方を変えてもいい。「分析的思考」だろうか。

その逆は、時計にもいろいろある。腕時計、デジタル時計。また、私の部屋にあるこの時計と同じ型の時計が日本のどこかで誰かが使用している。今も生産され続けているだろうか。この時計を設計したのはどんな人だろうか。・・・というような考え。


一個の時計を見た時に、そこにあるその時計について考えるのか、時計というもの、時計という概念を考えるのか。


以前、ちょっと実存主義とは何か、ということを調べたことがあったのだが、簡単に言うと、実存主義というのは一般概念は実在せず個々の存在から抽象化されたものである、というようなことだと理解した。その例が、サルトルが言っていた、「ユダヤ人という概念は実在せず、一人一人の人間が存在するだけだ」というような言葉である。


また、「英語は冠詞だ」という本を読んでとても参考になったのだが、英語では名詞が単数か複数かを必ず意識する。「an apple」なのか「apples」なのか。日本語ではわざわざ一個のリンゴとかリンゴ複数などとは言わない。この単数複数というのは、たんに一個なのかたくさんなのか、という意味だけではない。「an apple」というときは、話者の目の前にあるいは今思い出している情景の中に存在する特定のリンゴを意味する。「apples」という時は、本当に複数のリンゴがある場合にも使うが、「リンゴ一般、りんごというもの」と言う意味で使われる。「Apples are red.」とか。

だから、名詞を単数形で冠詞をつけずに「apple」と言うと、英語を話す人にとってはとても気持ち悪いそうだ。私は実際、帰国子女の人に何の単語だか忘れたが何かを聞かれて単数で冠詞をつけずに答えたら、「a」をつけて訂正されたことがある。


実存主義でいう「人間一般という概念は存在しない」というのも(これはあくまでも私がそうだと理解する実存主義である)、この名詞の単数形に定冠詞をつけないと気持ち悪い、ということと同じではないだろうか?「a man」「men」「man」

「人間は平等」だ、というのは「all men are created equal.」というように複数形で書かれる。

日本語だと「人間」というのが実際に生きている人々をさしているのか、「人間というもの」というある概念をさしているのかがはっきりしない。

英語でも「all men」が実際に生きている大勢の人間をさしているわけではないと言えるかもしれないが、日本語よりは実在の人間をさしている印象がある。なぜなら、英語では実際には使用されないが「man is created equal」という書き方ができるからだ。定冠詞がつかない名詞の単数形はそのもの一般と言う概念を示す、ということがありえたかもしれない。

「不可算名詞」というものもある。私はいまだに不可算と可算の区別が正確にできない。今調べてみたら、「抽象的で漠然としたもの」は不可算名詞となるものがあるそうだ。「man」というのはそうではないので、可算名詞なのだろう。