2012年の幸福論

夕べの朝生の本来のテーマは若者の幸福論であった。

就職難で高齢者やバブル期のツケを若者が背負わされているのに若者は幸福だといっている、これはどうしたことか?という話から始まった。

幸福である、つまり現状に満足している、ということは、すなわち現状以上のことを期待していない、絶望の裏返しである、という意見が出た。

また、就職氷河期とかなんとか言っている世代の親は、バブル期にさんざんもうけて貯蓄してきた世代だからその元で何不自由なく暮らせている、という話もあった。

また、幸福度といえば最近話題になったのがブータンで、経済的豊かさが幸福ではないのだといわれているが実はブータンは今高成長しているのだ、という話もあった。


私の考えは、「幸福かどうか」などということは、聞くのも答えるのもバカバカしい、ということになる。私は自分が何をしているときが幸福かという答えが見つからなかった。個人の幸福など、どうでもいいのである。二の次である。


さきほど書いたように、人は誰でも多少なりとも自分以外の何かのために生きている。それはしかたなくそうしていると、皆思っているかもしれないが、実は人は、自分自身のためだけに生きているだけでは満足しない存在なのである。


ただ生きていくだけなら、そんなに大変なことではない。死なない程度の衣食住環境を整えるだけなら、大学に行かなくても英語がしゃべれなくても教養がなくてもいい。


「幸福」というのは、「ただ生きているだけではなく、生きがいを感じるかどうか」ということだろう。

朝生で言われていたように、「本当は幸福じゃないけど現状以上を望まないから幸福と言っているだけだ」というのは、「もっとハングリーになってよりゼイタクな暮らしを目指せ」ということだろう。


しかし、それも間違っている。自分自身の生活を豊かにし、おいしいものを食べて、快適な生活を送ることには際限がない。いつかは飽きて、もっとゼイタクをしたくなる。幸福というものはそんなことではない。


このような「幸福感」というのは、先ほど述べた狭小な「愛国心」に通じるものだ。

ただ自分の生活を満足させる、という幸福感を目指す人は、自分が暮らす国が豊かになることだけを願う。それが「日本の国益」をどうこう言う人々だ。

だがそのような利己的な欲求の充足には限りがない。限りがないというのは、どんなにゼイタクをしても決して幸福を感じない、ということである。

現代の若者が経済的に不遇であっても幸福感を感じているというのは、カネだけではない価値観を見出しているのか、あきらめているのかわからない。

だが、少なくともオトナ達が期待しているような、『俺たちはダメなオトナたちが築いたダメな社会のせいでこんなに不幸になった、よし、立ち上がって日本を改革しよう!!』というような気概を持っている者は非常に少ないのは間違いないだろう。

なぜなら、ただ自分が幸せになるためだけの為に社会や国家を変革しようなどというのは、あまりにムダだからだ。自分の欲求充足だけなら、国家やら社会などどうでもよくて、適当に働いて適当に生活していれば済むのだ。オトナ達のいう幸福とはそれだけのことにすぎない。



私は、自分が幸福である、などということは恥ずかしいことであると思っている。

例えば、私の母はいつもグチを言っていた。社会に出られず、夫や子供たちの為に食事を作って洗濯をして掃除をして送り迎えをして、一銭ももらえない。仕事だからという名目でゴルフをしたり居酒屋で飲み食いして騒いだりカラオケでストレスを解消することもできない。私は生まれ変わるなら絶対男がいい、などと言っていた。彼女にアンケートをしたら、きっと幸福ではない、と答えただろう。

だが母はその後もずっと家事をし続けた。家事には休日がない。むしろ夫が在宅している休日の方が忙しいくらいだ。父が定年退職して家にいるようになると、家のことは何もできない父はなんでもかんでも母にやらせ、母はそのことにも愚痴をこぼしていた。やがて父は病に倒れた。母は夫を懸命に看病した。なんの報酬もない、自分になんの見返りもない行為である。

母は、死ぬまでこうやって誰かの為に生きているのだな、と私は思った。



母は、彼女自身の生活だけを見たら幸福ではなかった。おいしいものを食べて自分の趣味に没頭して言いたいことを言って過ごすのとは全く正反対の生活であった。

だが、彼女の人生を無価値であると言えるだろうか?むしろ、「幸福」ではなかったからこそ、彼女の人生に意義があったのではないか?夫や子の為に働いて、ゼイタクもできずぐっすり眠れなかったかもしれない、でも、夫や子供たちが幸せに暮らす姿を見て、彼女は充実感を感じていたのではないか?


人は、眠りたくてもいつまでも眠れるものではない。食べたり飲んだりするのだって、限りがある。
生きていくために必要なものというのはごくわずかである。

人が自分を不幸だと感じたり、生きがいを感じられないのはそのようなたんなる一個人の欲求が充足されないからではない。むしろ、本当の幸福を感じるためにはそのような欲求は犠牲にされるのである。


おそらく、現代では「幸福」という概念に、「自分が生きている意義を見出せている」というようなことは含まれていないだろう。ただ、楽しいとか、快適に暮らせるとか、治安がいいとか、そういうことでしかなくなっている。

「自分の欲求は充足されている」ということなら、今日本に暮らしていればほとんどの人がYESと答えるであろう。だが、「自分は生きている意義や喜びを感じている」ということになると、「そんなわけないじゃん、聞くまでもないだろ?」という感じではないだろうか。



危険な「愛国心」

夕べの朝生で、日本の人口が減少していることが話題になった。
出生率を上げるために、たとえば控除だとか、企業の子供を産んだ女性に対する待遇の改善などによって、なんとか人口を増やさないと日本は滅びる、ということが議論されていた。

それを聞いていて私は少し違和感を感じた。
人口が減少して何が困るのか?日本が衰退して何が困るのか?

最近、以前はタブーといってもよかった「愛国心」を表明することが恥ずかしいことではなくなってきた。しかし、私はやはり「愛国心」というのは非常に危険なものであると感じた。昨日の朝生で見られた「日本の将来のために人口を増やす」と考える、そのような「愛国心」は、危険な愛国心である。

つまり、国を至上としている。自国を愛するのは出身地を愛したり、家族を愛したりするようなほとんど本能のようなもので、努力してそれを培ったり維持していくようなものではない。

「国のため」を言う人が強権的というか高圧的というか、そうでない人を侮蔑するのは、「自分は自分という個よりも大きな存在を自覚しそれに奉じている。自分だけのために生きているのではない。国を愛さないものは自分だけのことしか考えない動物のような低次元な存在だ。」と考えているからだろう。

中にはそういう、自分のことしか考えない動物というか虫けらのような人間がいることは確かだ。だが、それはごく少数である。誰だって、自分の為だけでない、何かの為に生きている。そしてそれは、別に強いられているわけでも、脅かされているからでもない。中には強制的に何かの為に生きさせられている人もいるかもしれないが、そのような強制に甘んじているのもその人の意志である。いまどき、少なくとも日本では、「奴隷」は存在しない。存在しているのは自ら奴隷になっている人々のみである。

「愛国心」が危険なのは、「個よりも尊いものに奉じる」からではない。そのこと自体は尊く大切なことである。そうではなくて、往々にして「愛国心」は自国より尊いものを認めないからである。自国より尊いものとは何か。世界である。経済学者やジャーナリストはよく「国益」という。世界は国同士が争いだましあい闘いあって自国の利益をいかに確保するかを競う場であるというのが彼らの認識である。そういう認識に立つのでTPPとかPKOとかに反発するのである。私に言わせれば「国益」などというものを意識している人間は独裁者となんら変わらない。目指すところは独裁者と同じなのだが、自分が独裁する力をもっていないために妥協しているだけである。

日本の人口が減少して国家として成り立たないなら、どこかの国に服属でもされてしまえばいいのである。あるいはなんらかの共同体の一員となればいいのである。他国と競い合ってまで「日本国」というものを存続させる必要はない。

今までにも何度か書いたと思うが、おそらく多くの日本人がお手本にしているアメリカの「愛国心」は、日本国には適用できない。アメリカと日本では「国」の概念が全く違うからだ。アメリカ合衆国というのは、地理や人種などを超える枠組みである。そういうものに固執することをなによりも拒む共同体である。日本国を愛するというのは、それと全く反対のことだ。地理と民族に固執することだ。そういう「愛国心」は、かつて我々がタブーとしたのが正しかったのである。

芸術商品論

お笑い芸人と放送作家、小説家と編集者、ミュージシャンとプロデューサー、野球選手とエージェント・・・。

こういう関係がある。私が見たり聴いたりするエンターテイナーやアーチストと呼ばれる人の背後にこれらの人々がいて、かなり重要な役割を果たしている。

今までも、そのような人々の存在を全く知らないわけではなかった。でも、そういう人たちは演者の才能のおこぼれにあずかっているだけであり、実際は演者が大金を動かしているのだと思っていた。

しかしその考えがかわりつつある。プロデューサーのような人々の果たす役割がかなり大きいことがわかってきた。そして最近は、もしかして芸術家というのは商業的には全く無価値なのではないかとさえ思えてきた。

それは、芸術を否定するのではない。文学、映画、お笑い、漫画、音楽、演劇、どれもすばらしいものは本当にすばらしいと思うし、なくてはならないと思う。でも、そのすばらしさと商業的な価値、つまりおカネになるかどうかは全く別の話なのではないか。


先日テレビである有名お笑い芸人がコント番組をやることになり、その企画会議の様子が放送されていた。そこでその芸人は次々に自分のアイディアを話していく。周りにいる放送作家たちがそれを聞いて笑いながらメモを取ったりしている。

そして後日実際にコントを収録することになって、芸人はセットや小道具を見て感心したりしている。当然だが、それらを作ったのは芸人自身ではない。さらに彼は、台本も書かない。台本は放送作家が書くのである。かれは案を出して演ずるのみである。


私が日々楽しんでいる音楽は、アーチストが作り出したものなのか、プロデューサーが作り出したものなのか。つまり、芸術品なのか、商品なのか。ということが、わからなくなってきた。

私はずっと、芸術というのはアーチストが生んだ希少なものに、せいぜいパッケージしたり宣伝したりする程度のことを施されていると思っていたのだが、プロデューサーとか編集者というものは、アーティストにこんなことをやったらどうか、こういう方向性で行ったらどうか、ということを提案したり指示したりするようだ。

主にテレビで活躍するアイドル歌手などは、ほとんど自分の意志と関係なく、言われるがままに歌わされ踊らされている。それはテレビだけだと思っていたが、どうやら小説家やミュージシャンにもそういうところがあるようなのだ。

私はそういう内幕を知ると、なんだか興ざめする。ある天才が創り出した作品を鑑賞しているのではなく、金儲けのために企画された商品を消費していただけだったのかと、アーチストというのは金儲けの為に製造される商品の一素材にすぎないのかと。

もちろん本当の天才、本当の芸術というのは存在する。でもきっと、その芸術そのものには経済的な価値は全くないのだ。私たちが芸術鑑賞において金銭を払うのはアーチストに対してではなく、その芸術を商品化して一般人が鑑賞できるようにした人々に対してが主なのである。

猫がキーボードに乗る理由(2)

書き忘れたがもうひとつ思ったのは、これはキーボードに手を置いている場合に限るが、猫にとって人がキーボードに両手をそろえて置いている状態というのは、なんだか「さあいらっしゃい」という風に見えるのではないだろうか。「おいで、ここにおいで、この上にお乗り」、というように。

猫がキーボードを好む理由

youtubeで、猫がパソコンのキーボードに乗るという映像を見た。その映像では、人がキーボードの上に両手を置いていた。打鍵はしていない。すると子猫がやってきて、その両手の上に横向きに乗った。キーボードの上にある人の手の上に乗った形だ。そしてその人はそのまま両手をゆっくり上に持ち上げたが、猫はそのまま両手の上に乗っている。ほかにもネコがキーボードに乗る映像や画像やそれについてのブログの記事などがたくさん見つかった。どうやら猫はキーボードの上が好きなようだ

なぜだろうか?いくつかの説がある。


1.暖かいから

  デスクトップPCの場合は暖かくないので違う。


2.飼い主にかまって欲しいから

  誰も打鍵していないキーボードにも乗る映像があったのでこれも違う。


3.玉砂利と似たような感触で気持ちがよい

 これが有力である。


4.飼い主の手の匂いがついているから

 これも有力である。


私は最初は4.だと思ったのだが、猫の挙動を見ているとやはりキーの上にすわったときの感触が気持ちよいと感じているように見える。

私は猫は飼っていない。飼ったこともない。とても飼いたいのだが、マンションがペットを飼うことを禁止している。たとえ禁止されていなくても、猫を飼ったら糞尿や毛で汚れたり、物を引っかかれたり倒されたりするのは嫌だ。

今年の夏は朝顔の鉢植えを置いたり金魚を飼ってみたりしたが、それらの水遣りとか水換えとかでもめんどくさかった。朝顔はすぐ伸びてしまいツルの行き場がなくなってしまってわざと枯らした。私は生き物を飼うのが苦手だ。花も好きなのだが、最近は花屋に置いてあるものを眺めて満足しているのが無難だと思うようになった。


ラン日記

2010年

6/5
6:00頃スタート。やや曇り、蒸し暑い。前日就寝1:00起床5:00。朝食なし、コーヒー一杯。砂糖2個。下黒ジャージ、上ローリングス長袖アンダーシャツ+白トレーナー。自宅前467交差点スタート、自転車道の1.5km地点まで。推定2.7km。往路17:40(信号待ち30秒程度)、復路:16:02。往路で腰の辺りがかゆくなる。復路で右ひざが痛むがすぐおさまる。

8/16
16:45頃スタート マンション前の信号から0.5km標識+1kmで止まる。今日測ったら2.7km。時間は、14分30秒くらいだったかな。帰りはきつくて、1.5くらいでやめる。8分くらいだったかな。覚えていないくらい疲労困憊。体重は69kgくらいになった。

8/17
15:00頃 藤沢橋から1km標識まで。2.5km 時間は不明だが15分以上つまり6分ペース以上なのは確か。帰りは1.3kmくらい。時間は不明だが7分ペースくらいかな。体重は68.9。ようやく68kg台になった。この辺が上限。ベストは65くらいかな。もっと減ってもいい。走り始めて一番軽くなったのは62~63kgで体脂肪率が19前後くらいだった。マラソンをやるには体重でさらに3kgくらい落としたい。体脂肪率は15%くらいにしたいな。

8/19
2kmを往復。往路は12.5分くらい、復路は16分くらいだったかも。この暑さなので走っただけでよしとする。
3時ごろ。帰って水風呂入って、牛乳をゴクゴク飲んでヨーグルト一箱食べて体重測ったらほぼ70に戻った。

8/20
昨日は休み。今日は5時半ごろから、すずしい。2km往復。最後の1km、ピッチを測る。たぶん、380x2=760。
約1.3m・・・ほんとかな・・・?ピッチじゃなくてストライドね。ピッチは760/12分なので、約63。ほんとか?ピッチが少なくてストライドが大きすぎる。数え間違えたような気はしないでもない。また今度数えてみる。時間は行きも帰りもだいたい12分ちょうど。

9/5
6時すぎ。2km x 2。すずしい。往路:12:33 復路:11:25。帰ってきて水も飲まずシャワーも浴びず全裸で測ると67台。夕べは寝る直前にセブンイレブンで買った小さめのカツどんとたらこスパサラダを食べて、ぐっすり寝た。やはりシッカリ食べて、寝て、運動する。これがいい。ピッチだけど、500mで230歩くらい。230というのは左・右ワンセットで1として数えたもの。ピッチにすると460か。1kmだと920。ストライドは1.08となる。こんなものだろう。やっぱり、私はストライド走法ぎみのようだな。長距離を走るにはもっとピッチを刻む必要がある。今度からストライドを伸ばさずにピッチだけあげて速度を上げる練習をしようかな。

9/11
6:00頃 涼しい。2.5 x 2。往路15:15、復路14:52。体重68.9。

2011年

7/1
3x2

7/2
5 + 2+2+1

7/9
3x2

7/16
3x2

7/17
5x2(往路6.5分、復路約7分ペース)。体重67kg 。

7/23
5x2。往路 6分+ペース。 涼しいので復路はやや飛ばす。しかも腹が下っていた。 5:20/km ペースで帰り、便所に直行。

7/24
5x2。あまり体調がよくない。 6時半から。往路は6:20/km くらいのペース。もう歩いて帰ろうかとおもうくらい。7:20/kmくらいのペースで終える。

7/30
飲みすぎていて朝は走れず。雨も降っていた。 3時半から5x2。復路では、1kmを速めに走ってみたら5:00を切れなかった。500mをもっと速めに走って2:12秒くらい。180のピッチを何度かためしたがかなりしんどい。ちょっと気を抜くとダメだ。

8/7
6時半頃から。蒸し暑い。体調もあまりよくないので、3x2にする。体調が悪いと言っても飲みすぎである。昨日は走るどころか起き上がることすらできなかった。7月から走り始めてようやく軌道に乗るかと思われたが、飲み会によってまた生活が乱された。

8/13
3x2 体調優れず。右わき腹背中よりが突っ張ったように軽く痛む。酒の飲みすぎだろうか。

8/14
4km 5x2をやろうと思ったが、なんだかぞくぞくと寒気がしてきて危険を感じたのでストップ。川の反対側をゆっくり歩いて帰った。

8/15
5x2 快調。

8/16
5x2 昨日ちょっと飲んですっきり寝てないせいか、イマイチ。なんとか走りきる。体重が66kg、体脂肪率が 17.5%になった。ホントかな?

8/17
4 + 5 くらい。引地川沿いの自転車道で海へ行く。30分日光浴して帰ってくる。西側の道が自転車道。ヘトヘト。

8/18
4km。2時半スタート。無茶だったか。10Kmいくつもりだったが、4kmで力尽き、帰りも歩く。ちょっと疲れてきているのか。明日は休むか。

8/21
二日やすんでしまった。 今日は涼しくて10Kmを一気で。5kmまで31分、復路は27:17。楽勝。ちなみにニューシューズ、シャツ、パンツ。シューズはクッションがあまりないがすごく走りやすい。往路の2.5~3.5までの1kmを飛ばして4:33。体重68.1kg 体脂肪率18.1%。

8/27
右ふくらはぎを痛める。朝早く、体が起きてないうちにいったらなんか右足首に違和感があるなと感じていたら、1kmちょっといったところでビキン!となって即ストップ。しばらく歩けない。その日は歩くのも足を引きずる。 そして2週間たった今日、走ってみるといけそう。ノンストップで5km行くかと思っていたが、 3kmあたりで違和感が出始め、復路を開始直後にやめる。


2012年

2/9
16:10ごろスタート。 往路5km 34:10。復路5km 34:51。左ひざ痛む。ウインドブレーカー初装着。寒くも暖かくもなく。



カツカレー

大坂なおみがセリーナウィリアムズを破って優勝した時のインタビューで「カツカレーが食べたい」というのを聞いてから、食べたくなった。 最近はカレーライス自体をほとんど食べることがなかった。 さらにそれにカツが入っているとなると重すぎる。 体調がよく空腹のときに何回か食べ...